伝説を刻んだ2009シーズン
ーー石川直宏と国立競技場との関係で言えば、2009シーズンは語り落とせないと思います。
石川 はい。
ーーキャリアハイとなる15ゴールを挙げたシーズン、最初の得点が国立競技場でした。
石川 千葉戦ですね(4月18日)。前年に監督に就任された城福浩さんに、最初の時点でズバリと「このままでは試合に出られない」と言われていました。監督が求めているスタイルと僕自身のプレースタイルが違うからだと。「今までは東京の象徴だったかもしれないけど、俺がやるサッカーの中ではそれだけでは試合に出られない。もっと周りとの連係やボールを握るというプレーに加わってもらわないといけない」と。そう聞いた時に、自分の中では「試合に出るのは簡単ではないな」という思いと同時に「自分自身が変化するチャンスだな」と気持ちが芽生えました。ただ、変化をするのはやっぱり時間がかかるので、2008年はしっくり来ないまま終わり、2009年はプレシーズンに帯同していなかったので、本当に序列で言えば下からのスタートだった。だから試合に出たら点を取ることが必要でした。
ーー結果を出さなければ、道は開けなかった。
石川 では、どうやって点を取るのかと言えば、それまでは右サイドで勝負していましたけど、中に入っていってシュートを狙うことが必要でした。千葉戦のゴールはまさにカットインしてシュートを打ってゴールを決めた。あのとき、羽生(直剛)さんが後ろを回ってくれたりとか周囲と連係でき、そして自分が外から中に入って見た景色がすごく新鮮なものでした。右サイドだと角度が付くのでゴールを狙うのもそれだけ難しいのですが、中にいると、プレッシャーを受けますが、ゴールが広く感じるし、周囲ともより連係ができる。「ここでプレーしたら点が取れるな」とはっきり感じられたのが、あの千葉戦のゴールでした。
ーー2009年の最初のゴールがその後の量産につながっていったのですね。
石川 間違いないですね。あの景色が見たいと思ってその後もプレーしていました。千葉戦のあとにガンバ大阪戦でボコボコにされましたが(@万博/2-4)、左サイドからカットインして、同じようにコースがはっきり見えてシュートを決めることができた。その次の味の素スタジアムでの大宮アルディージャ戦ではハットトリックを達成しました。あの年の最初の国立競技場の千葉戦でつかんだゴールの感覚が大きかったと思います。
ーー2009年はリーグ戦ではもう1回、国立競技場でプレーしています。今度は清水戦でした(6月27日)。
石川 FC東京が国立競技場で試合をすることは、僕にとってはとても幸せなことでした。その試合でもゴールを決めていますが、すでに僕のプレーを周りが分かってくれているし、僕も周りの選手のことを分かっているし、関係性ができていたと思います。ゴールは意外性があるもので、ボックスの外でこぼれ球を拾ってシュートを打ちました。それ以前だったら、もっと右サイドにいて決められなかったシュートだと思います。城福さんが求めるスタイルに自分が寄せたことで、あの場所にいることができた。スタイルの変化が生んだゴールでした。
ーー石川さんはケガで決勝の舞台に立てませんでしたが、2009年もチームはヤマザキナビスコカップ決勝で川崎フロンターレを下し、優勝しています。
石川 あの日も快晴でした。クラブにとって、とても大きいタイトルになりましたね。
ーーそして2011年度には天皇杯決勝で京都を破って初優勝を果たします。石川さんと国立競技場の関係はさらに深まったと思う決勝でした。2アシストを決めました(4-2)。
石川 国立競技場は、やっぱりパワースポットですね(笑)。
ーー国立男として決定的になったのは、2013年の出来事でしょうか。
石川 自分で言うのもなんですけど、あれは運命を感じるゴールでした。
ーー2013年の5月15日、Jリーグの日に国立競技場で行われたヤマザキナビスコカップのアルビレックス新潟戦でした。
石川 1993年5月15日にスタンドでJリーグ開幕戦を見ていた僕が、20年後に同じ国立競技場のピッチに立って、しかもゴールを決めるなんて、とても感慨深いものがありました。僕自身も試合前からそのことは意識していて、話をしてもいたんです。あの日の試合には20年前にチェアマンとして開会宣言をされた川淵三郎さんがセレモニーでいらっしゃっていました。
当時、僕は足を痛めていて、コーナーキックを蹴ったあとにゴリッとなってしまって、試合後に手術をすることにもなるんですけど、痛みを伴いながらもそういう記念すべき試合でプレーできて、しかもゴールを決めることもできた。ゴール後にファン・サポーターの方に走っていたとき、歓声に応えながらも、お辞儀をして国立競技場に「ありがとう」と感謝したことを覚えています。