上写真=1985-86シーズンのカップウィナーズカップを制したディナモ・キエフ。決勝では圧巻の強さを見せつけた(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真◎Getty Images
ソ連最強軍
かつて「鉄のカーテン」の向こう側に、ヨーロッパを震撼させる強大なチームがあった。世界がまだ、東西両陣営に二分されていた冷戦期。ソビエト連邦の一角を占めていたウクライナの名門ディナモ・キエフは西の強豪も恐れる東の刺客だった。
そして、1980年代の半ばに最強軍が現れる。破竹の快進撃でヨーロッパ三大カップの一つであるカップウィナーズカップの栄冠を、やすやすと手中に収めた。
そこで人々を驚かせたのが攻守に切れ目のない速戦即決だ。しかも、精密なロボットのように全員で守り、全員で攻めた。それはオランダの革新と似て非なるもの。言わば「東のトータルフットボール」だった。
ヨーロッパの旧共産主義国家にはディナモの名を冠したクラブがいくつもある。その多くはかつて秘密警察と強いつながりを持ち、公的資金の調達など多方面で支援され、有利な立場にあった。旧ソ連のディナモ・モスクワはその好例だ。泣く子も黙るKGB(諜報機関)を後ろ盾に1960年代の半ばまでソ連リーグ最多の優勝回数を誇っていた。
対抗馬はスパルタク・モスクワと軍の配下にあったCSKAモスクワくらい。ところが、1960年代後半から国内の勢力図が大きく変わっていく。当時ソ連の構成共和国の一つだったウクライナの強豪ディナモ・キエフが、モスクワ勢に鋭い牙をむいたからだ。
初優勝は1961年。そこからソ連の解体に伴い、リーグの開催に終止符が打たれる1991年まで数々のタイトルを獲得し、ソ連最強軍にのし上がった。
最大の戦果と言えば、二度にわたるカップウィナーズカップ制覇だ。ヨーロッパのメジャータイトルをソ連に持ち帰った最初で最後のクラブでもある。
先導者がいた。
東の智将バレリー・ロバノフスキーだ。1974年から16年間に及ぶ長期政権を築き、西側陣営の名だたる強豪と伍して戦う強力なチームをつくり上げた。試合中にベンチで微動だにしない姿から「石像」と呼ばれたが、その実は勝利の方程式を追い求める探究者。しかも、西欧の常識とは大きく異なる独自の思想をもって、革新に挑み続けた。
科学的思想
ロバノフスキーの最高傑作は、カップウィナーズカップを二度目に制した1986年のチームだ。決勝のスコアは3-0。のちに「賢者」の異名を取ることになる指導者ルイス・アラゴネス率いるスペインの強豪アトレティコを、まったく寄せつけなかった。
全員で守り、全員で攻める。
彼らの戦いぶりは1970年代のオランダを彷彿とさせるものがあった。言わば、ソ連版トータルフットボールだ。ただ、違いがある。最強キエフを産み落とす過程で思想的な幹となったのは「科学」だった。
当時のソ連と言えば、宇宙開発や軍事部門でアメリカと技術力を競った科学大国。1970年代に入ると、国策としてスポーツ界にも資金が投じられ、競技力向上の科学的な研究が進められた。ロバノフスキーは時流に敏感だった。ディナモ・キエフの監督に就任する以前から物理大学の要人を協力者に迎えて、データ分析や統計を活用しながら、独自の理論を固めていく。
「1試合に犯すエラーの割合を、18%以下に抑えられるチームは、まず負けない」
この有名な言葉も統計に基づくものだった。いかに相手のミスを誘い、自分たちのミスを減らせるか。指揮官はその手立てを考え、チームに落とし込んでいった。
なかでも力を注いだのはゲームモデルの合理化だ。練習を通じて複数の攻撃パターンを刷り込み、選手たちはそこから局面に応じて最も適したものを選択していく。つまり、これという「形」を用意したわけだ。
「モダンサッカーでは時間も空間もない。だから各選手はボールが来る前から、次にやるべきことを理解しておく必要がある」
ロバノフスキーはそうした考えからアメフト的な手法を採り入れている。あらかじめ、全員の共有する形があれば、判断に迷うことも少ない。次にどこへ動き、誰にパスを出せばいいかが事前に分かっているからだ。
実際には個人差がある。そこで試合ごとに選手たちの強度、活動性、実行力、失敗率などを細かく測定したほか、選手同士の相性まで分析を試み、最も生産性の高いイレブンを選りすぐった。
だから極端な弱点を持つタイプは皆無に近い。ピッチに立つのは総合力が高く、しかも一芸に秀でた人材ばかりだ。こうして攻守に迷いなく動き回る「時計じかけのキエフ」が出来上がった。