1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第32回はJSLの初代得点王、日立の野村六彦について綴る。

上写真=左から2人目が野村六彦(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

正確な技術と運動量を誇るインナー

 1964年東京オリンピックに向けて日本代表の強化のために招聘したドイツ人コーチ、デットマール・クラマーが、その後の日本サッカー発展のために残した提言から翌年に始まった日本サッカーリーグ(JSL)。その第1回大会は8チームよって争われ、当初の予想を覆して東洋工業が優勝、有力とみられた八幡製鉄は2位、古河電工は3位に終わった。

 そんな結果のなかで、得点王となったのは4位の日立本社で15得点を挙げた野村六彦(のむら・むつひこ)だった。前線に立つストライカーではなく、当時のシステムではインナー(インサイドフォワード)と呼ばれた今でいうなら攻撃的MFだ。

 広島の舟入高校から中央大学を経て日立に入った野村は、当時の記録では身長165センチ、体重62キロと小柄だが、正確な技術と的確な判断力を備え運動量も豊富で、中盤でパスワークの中心となりながら得点にも絡む選手だった。

 注目を集めたリーグの開幕戦、駒沢陸上競技場で行われた名古屋相互銀行(名相銀)との試合で、日立は6-1で快勝。野村はPKの1点を含むは2得点を挙げる活躍を示した。さらに第2節の東洋工業戦は出身地広島での試合で1-2と敗れたものの追い上げの1点を記録。さらに第3節の三菱重工戦でも4-0と快勝した試合で2ゴール。開幕3試合で5点を挙げる活躍を見せた。

 第4節で古河電工に0-1と敗れた試合では得点できなかったが、第5節のヤンマーディーゼル戦では20メートルのミドルシュートを決めた。ここでリーグは2カ月のインターバルに入るが、9月に再開された第6節の八幡製鉄戦、続くヤンマー戦、名相銀戦でも1点ずつを決めている。

 第9節の八幡戦では、本人も「印象に残っている」と振り返るコーナーキックを直接決めるゴールで優勝候補の一角と1-1で引き分け。さらに10節の豊田織機戦でも2ゴールを挙げて、第5節から6試合連続得点で12ゴールを記録し得点王レースを独走する。

 第11節の東洋戦は、優勝に向けてひた走る相手に0-4と完敗を喫し、連続得点記録は途絶えた。それでも第12節では国立競技場で行われた三菱との試合に3-0と快勝し、この試合ではFKを直接2本決めて勝利の立役者となった。

 しかし、やはり国立で行なわれた次の古河戦ではPKを相手GK保坂司に止められて2-3で敗れる。「PKは大学の頃から通常の練習が終わると10本から20本蹴って練習していました。右足で確実に左隅を狙っていたのですが、この時はちょっとキックが弱くて日本代表の保坂さんに止められてしまいました。これを決めていれば全チームから得点できていたので今でも悔しいですね」と振り返る。そこまで3回あったPKはすべて決めていただけに、唯一の後悔といったところか。


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