上写真=ヤンマーと藤和による決勝戦は1ー1で両チーム優勝に。左がヤンマーの木村文治主将、右が藤和の花岡英光主将(写真◎サッカーマガジン)
文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン
代表組以外の出場機会創出と若手の成長が目的
日本リーグ(JSL)開設9シーズン目となる1973年はいくつかの大きな変更があった。前年からJSL2部が始まったのに次いで、この年から1部は10チームの編成となり、2部優勝のトヨタ自工、2位の田辺製薬が昇格した。これによって、当然試合数は増えることになるが、この年のシーズンはスタートが例年の4月ではなく7月となり、前期後期の間にインターバルを置かず継続して12月まで行なわれることになった。これは日本代表が、5月に韓国のソウルで開催される74年ワールドカップ(W杯)予選に臨むためだった。
日本代表は68年メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得した後、70年W杯、72年ミュンヘンオリンピックの予選でも敗退。縮まったと思った世界との差が再び開いたことに危機感を覚え、日本代表の強化を最優先に考えたスケジュールを組んだ。
2月には代表候補を集めてまず千葉・検見川で合宿、3月に入って徳島・鳴門、次いで九州に移って佐賀で合宿を行なう。さらに「列島縦断強化ツアー」を敢行。まず佐賀で新日鉄と対戦、徐々に北上して山口で東洋工業、京都でヤンマー、大阪で田辺、名古屋で藤和不動産、清水でトヨタ、横浜で古河電工、大宮で三菱重工と、JSL各チームと対戦。最後に東京・西が丘で日本ユース代表とも試合をして16日間で9試合をこなすという驚くべきスケジュールで強化を図った。
さらに4月にも合宿を張り、月末から5月にかけて英国からアマチュア選抜のミドルセックス・ワンダラーズを招いて3試合を戦った後、ソウルへ臨むという予定だった。
このため、リーグ戦の日程が先送りされることとなったわけだが、その間代表に選出されていない選手が公式戦の機会がなくなり、特に若手を成長させるためにはそういった機会を設ける必要があった。そうした理由から「JSLスペシャルカップ」が開催されることになった。JSL1部を東西5チームずつに分け、総当たり1回戦のリーグ戦を行ない、上位2チームが準決勝へ進むという方式で実施された。
東地区が日立製作所、三菱、古河、日本鋼管、藤和、西地区がヤンマー、東洋、新日鉄、トヨタ、田辺という組分けで行なわれたグループリーグは、両地区とも熱戦が展開される。