1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第29回はサッカーという競技の普及とJSLの認知度を高めた白黒ボールについて綴る。

上写真=1966年のJSLから。白いユニフォームは三菱の杉山隆一(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

JSLのロゴデザインも変更

 1965年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)の大会のシンボルマークは当初は、JSLのロゴの文字の上に12枚縫いのサッカーボールが置かれているデザインだった。これが1974年のシーズンからは、同じデザインながらボールが白黒のものに変わり、JSLが終了する1992年まで使用された。

 マークだけを見ればJSLが始まった当初は、一見バレーボールかドッジボールのようなボールがすべての試合で使われていたと思われそうだが、実は第1回の1965年シーズンから白黒のボールが使われていた。

 まだサッカーマガジンも創刊されていない第1回大会をまとめた日本リーグ年鑑1966年版の表紙の写真を見れば一目瞭然で、白黒のボールが写っている。ちなみに左の選手は第10代日本協会会長にしてJリーグ初代チェアマンの川淵三郎氏である。

 サッカーボールは1960年代までJSLの最初のマークのように12枚か18枚の細長い革のパネルを縫い合わせたものが主に使われていた。色も革そのままの茶色か、色が付けてあっても白くらいだったが、1963年にドイツでハンドボールのボールを参考に12枚の五角形と20枚の六角形の32枚のパネルによるボールが開発された。さらに、見やすいようにと五角形のパネルを黒に、六角形の部分を白く塗ったボールが誕生した。

 日本では、1963年10月に翌年の東京オリンピックに向けて準備と強化のために開催されたプレオリンピックに出場した西ドイツ・アマチュア代表チームがこのボールを持ち込み、それを試合でも使用して初めて一般に公開された。また同年に渡欧していた田辺五兵衛元協会副会長が現地でこのボールを目にして、機関誌にそのことを記し東京オリンピックでの使用も提案するなど、日本でも広めることを推奨していた。

 64年東京オリンピックでは、白黒ボールが使われることはなかったが、日本代表はベスト8の成績を残してサッカーの認知度を高めた。特別コーチを務めたデットマール・クラマーがドイツへ帰るに際して残した提言から、これを受けた有志がすぐさまJSLの発足を実行に移した。開幕に当たってリーグを成功させようと様々なアイディアを出し合った中に「白黒のボールを使う」ということも提案された。見やすく、サッカーをイメージさせる効果もあると感じたためだ。

 当初はまだ公認球として認められていなかったので、古くからの日本協会幹部からは反対されたものの、東京オリンピック前年から日本代表の監督、コーチを務めた長沼健、岡野俊一郎らリーグ発足に尽力した若い指導者たちが強行し、65年の後期から使われるようになった。


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