連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回は、ドイツの1強時代に風穴を開け、頂点を極めたクラブを取り上げる。的確な補強と指揮官の手腕で、欧州王者にまで上り詰めた90年代中期のドルトムントだ。

伝統のリベロシステム

画像: リベロとしてチームをけん引したザマー(写真◎Getty Images)

リベロとしてチームをけん引したザマー(写真◎Getty Images)

 もはや絶対王者(バイエルン)を恐れる理由は何もない。

 智将に率いられたドルトムントは1995ー1996シーズンのブンデスリーガで連覇を成し遂げる。陣容もスケールアップした。なかでも、刺客コーラーを加えた最終ラインは、より強固なものになった。その恩恵にあずかったのがチーム随一の大駒である。

 リベロのザマーだ。

 1990年代の半ばと言えば、ゾーンの4バックが根づき始めた頃である。だが、当時のドイツは独自路線を歩んでいた。3バックだ。それも、最後尾のど真ん中で人が余る伝統のリベロシステムである。これが依然として主流だったわけだ。

 2人のストッパーが敵のFWをマンツーマンで見張り、リベロがカバーに回る仕組み。現代では、すっかり廃れたシステムも、当時はまだ十分な効力があった。事実、イングランドで開催された1996年のEUROでも、リベロシステムを踏襲したドイツが覇権を握る。その原動力となり、同年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞=当時)を受賞したのが、ザマーだった。

 リベロ(自由人)と言っても、実際にはカバー専門のスイーパー(掃除人)と変わらぬ「偽物」も多かった。ザマーは違う。その動きは神出鬼没。しばしば最前線に攻め上がり、ゴールまでかすめ取った。まさにリベロの名に違わぬ本格派だった。

 しかも、コーラーとジュリオ・セザールという強力な用心棒が脇を固めていたから、持ち前の攻撃センスが生きたのも道理である。しばしば2人の手前にポジションを取って、攻撃のタクトを振るっている。いわゆるフォアリベロに近い機能を果たしていた。

 ただし、同格以上の相手と戦うときは「火消し役」としての色彩を強めている。攻め上がりを自重し、守りに専念するケースが少なくなかったわけだ。このあたりのバランス感覚が、いかにも知性派のリベロらしい。同時期ブンデスリーガでしのぎを削ったドイツ人のリベロに、重鎮マテウス(バイエルン)と天才肌のトーン(シャルケ)がいたが、前者は守り、後者は攻めに大きな強みがあった。
 ザマーのスタイルは彼らの中間にある理想的なもので、リベロとしての総合力は一枚上手。それがそのままドルトムントのアドバンテージになっていた。

逆境で光る用兵術

 驚くほど逆境に強い。その点において、この時代のドルトムントは頭抜けていた。

 ブンデスリーガで3連覇を逃した1996ー1997シーズンは象徴的だった。序盤戦から主力にケガ人が相次ぎ、野戦病院と化す緊急事態。ベストの陣容で臨める試合は、ほとんどなかった。チームの背骨となる縦のラインは壊滅同然。得点源のリードレ、攻守の心臓となる中盤のパウロ・ソウザ、さらに最後尾からチームを掌握するザマーまで失った。

 彼らがピッチに立った機会は、総試合数の半分にも満たない。それでも、しぶとく勝ち点を拾い、3位でシーズンを終えている。いや、すごかったのはそこではない。最大の衝撃はクラブ史上初のチャンピオンズリーグ(CL)制覇を成し遂げたことにある。

 まともな陣容も組めないドイツ王者の優勝を予想する専門家は、おそらく1人もいなかった。伏兵とみなす者すら少なかったはずだ。

 それでも、最後の最後に笑ったのは「彼ら」だった。際立ったのは、ヒッツフェルトの用兵術だ。駒のやりくりは見事の一語。本来はベンチに回る控えの面々が、まるで魔法にでもかかったかのように躍動する。たとえは悪いが、一夜限りの「一発屋」のオンパレードだ。

 強豪マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)を葬り去った準決勝の2試合は好例だろう。トレチョク(第1戦)とリッケン(第2戦)という伏兵が、値千金の決勝点をたたき出した。準々決勝以降の4試合で喫した失点はわずか1。手堅く守って、少ないチャンスをしたたかにものにする。小が大を食うための作法(弱者戦術)を心得るヒッツフェルトの面目躍如だった。

 大方の予想を覆し、ファイナルへの扉を開くと、手負いの一団に幸運が転がり込んだ。負傷に倒れていたキーマンたちが続々と戦列に戻ってきたのである。追い風もあった。決勝の舞台はミュンヘンのオリンピア・シュタディオン。仇敵バイエルンの本拠地だが、勝手の分からぬ庭ではない。しかも、大観衆を味方につけるメリットまで見込めた。

 利点はまだある。決勝の相手はイタリア王者ユベントスだ。主力のメラー、コーラー、ロイター、パウロ・ソウザはいずれも元ユベントスで、彼らの手口は知り尽くしていた。これらも踏まえて、智将が策を練り上げたのである。敵を知り、己を知れば――決戦危うからず。事実、そうなった。


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