上写真=アニエリ会長が待ち望んだ選手、プラティニが加わり、ユベントスは欧州の頂点に立った(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真◎サッカーマガジン、Getty Images
国内限定神話
井の中の蛙ーーなどと言っては失礼かもしれない。内弁慶と呼ぶ方が適切だろうか。
国内では無敵でも、ヨーロッパの舞台では不思議と栄冠をつかみ損ねてきた。イタリア随一の名門ユベントスのことだ。ミランとインテルのミラノ勢は1960年代に早々とヨーロッパ最強クラブになっている。だが、ユベントスは1980年代を迎えても、なかなか勝てずにいた。
いったい、何が足りないのか。どうやら、運だけではない――。誰もが薄々、気づいていた。転機は1982年の夏だった。奇しくも、イタリアがスペイン・ワールドカップで、実に44年ぶりとなる通算三度目の世界制覇を成し遂げた直後のことだ。
ひとりのフランス人がトリノへやって来る。この男こそ、鮮やかに歴史を書き換える、ユベントスの「待ち人」だった。ユベントスがセリエA(1部)の最強クラブへのし上がったのは1950年代のことだ。通算9回の優勝を誇るジェノアの最多記録に並び、追い越した。
それからグングン記録を伸ばして、今日に至っている。今夏の時点で通算優勝回数は36。2位につけるミランとインテルのそれが18だから、2倍の数だ。イタリアの最強クラブという点に疑いの余地はない。ところが、ヨーロッパの大会における実績では、いまもってミラノ勢の後塵を拝している。
UEFAチャンピオンズリーグ(CL)の優勝だ。ミランはイタリア勢で最多の7回、インテルも3回勝っている。だが、ユベントスのそれは2回に過ぎない。
セリエAでは過去二度にわたって外国籍選手の加入を禁じたことがある。1回目は1953年。その後、解禁されたが、1965年に再び門戸を閉じた。
そうなれば、国内屈指のタレントをかき集める力を持ったクラブは強い。その筆頭がほかならぬ、ユベントスだった。だが、イタリア王者として臨んだチャンピオンズカップ(CLの前身)では振るわなかった。決勝進出も1972-1973シーズンの一度だけ。ヨハン・クライフを擁するアヤックス(オランダ)の前に敗れ去っている。
傭兵不在の「イタリア選抜」では限界があったか。1960年代に、助っ人の力も借りながらチャンピオンズカップを制したミラノ勢とは対照的である。
無双の王者――。そんなユベントスの評判も「国内限定」の神話でしかなかった。
魅惑の「ル・ロワ」
風向きが変わったのは1980年代に入ってからだ。セリエAが15年ぶりに、外国籍選手へ門戸を開くことになった。
それは、ヨーロッパ制覇の野心を抱くユベントスにとっての追い風だった。そして長年にわたり、クラブを所有してきた名門一族のドン、ジャンニ・アニエリ(名誉会長)を魅了する男が現れる。
ミシェル・プラティニだ。
当時、キャリアのピークを迎えつつあったフランス・サッカー界の『ル・ロワ』である。フランス語で「王様」という意味だ。苗字からもピンと来るように、イタリア系移民の子孫。職を求めてフランスに渡った祖父の名前は、いかにもイタリアの男子らしい、フランチェスコだった。
もっとも、アニエリが惚れ込んだのはルーツではない。スタイルだ。優雅で、知性に富み、何よりも創造力にあふれていた。まさしくアニエリ好み。気品に満ちた当代随一のファンタジスタだった。しかも、一撃必殺の武器まで備えていた。FKである。
イタリアとのテストマッチで、直接FKから二度にわたって名手ゾフを出し抜いたのは語り草だ。これでプラティニの名がイタリア国内で一気に広まった。
アニエリが三顧の礼をもって、フランスの「ロワ」を迎え入れたのが1982年の夏。イタリアがスペイン・ワールドカップで優勝した直後のことだ。フランスも同じスペイン大会で4強入りの大躍進を遂げている。その動力源が、キャプテンを担うプラティニだった。アニエリの目に狂いはなかったわけだ。
スペイン大会が始まる前、すでに所属先のサンテチエンヌ(フランス)と交渉をまとめていたのも抜け目がない。大会後なら、値が跳ね上がっていたはずだ。
しかも、この新しい「10番」は、当時のユベントスにただ一つ欠けているラストピースでもあった。言わば、羅針盤である。
前線から守護神に至るまで、スペイン大会の優勝メンバーをそろえていたが、司令塔だけが見当たらなかった。イタリア代表でその役割を担っていたのは、フィオレンティーナに在籍する鬼才アントニョーニだった。
もっとも、プラティニは単なるレジスタ(イタリア語で司令塔)とは違う。しばしばボックス内へと切れ込み、点まで取った。
往年のリベラとマッツォーラ、近年のピルロとトッティをリンクさせたような存在だ。しかし、その偉才を遺憾なく発揮させるには「鶴の一声」が必要だった。