連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは、1982年-87年のユベントスだ。フランスからやって来た「ル・ロワ」プラティニがチームを変え、悲願のヨーロッパ制覇を成し遂げた。

ついに黄金ペアが躍動

画像: 1985年のチャンピオンズカップ決勝の先発メンバー。下段左から2人目がボニエク、3人目がプラティニ(写真◎Getty Images)

1985年のチャンピオンズカップ決勝の先発メンバー。下段左から2人目がボニエク、3人目がプラティニ(写真◎Getty Images)

 どういうわけか、プラティニにボールが回らない――。

 異変に気づいたのは、指揮官のトラパットーニだけではなかった。アニエリもすぐに「何かがおかしい」と察したという。

 試合はおろか、練習でもパスが渡らない。いや、プラティニだけではなく、ポーランドからやって来た新戦力のボニエクも傍観者へと追いやられていた。

 この「主犯」は元イタリア代表の大ベテラン。中盤を長く仕切ってきた36歳のフリーノだ。事態を見かねたアニエリは、選手たちを集めて、こう告げた。

「プラティニの加入を望んだのはほかでもない、この私だ。君たちは『下心』なく、彼にプレーさせなければならない」

 これを機にフリーノは小国サンマリノの新鋭ボニーニにあっさりポジションを奪われ、プラティニとボニエクの黄金ペアが、ついにピッチ上で躍動し始める。新たな黄金時代の幕明けだった。

 そもそもディフェンス力に関しては申し分のないチームだ。GKのゾフ、リベロのシレア、エース殺しのジェンティーレ、左サイドバックのカブリーニ、守備的MFのタルデッリという、5人の世界チャンピオンを擁していた。

 言わば『カテナチオ』の申し子たちだ。さらに前線にはスペイン大会の得点王で、イタリアを優勝へ導いた英雄ロッシがいた。相棒は1970年代からクラブのシンボルだったベッテガだ。

 1976年から指揮を執るトラパットーニは、カルチョの伝統的なシステムを重んじるゴリゴリの保守。いわゆる、イタリアニスタ(イタリア主義者)だった。人海戦術のカテナチオと鋭利なカウンターアタックの二本柱で、勝ち点を拾っていく戦法だ。また独特なのは陣形である。

 ベースは最後尾でリベロが余る1-3-3-3だが、2トップのチームを相手にする際は右サイドバックがストッパーに転じ、空いたスペースを中盤の一角が埋める1-4-2-3へと形を変えた。実質的には5バックだ。

 アタック陣の構成も変則的である。便宜上は3トップだが、左翼がセカンドストライカーの役回りを担う2トップに近い。

 一方、右翼は中盤に落ちて攻守に深くコミットする「ワーキングウイング」だ。両翼の位置取りも役割も大きく異なる独特のシステムを踏襲していたわけである。2人の傭兵は、このシステムに難なく適応する高い戦術眼を持っていた。攻撃へ転じると、プラティニが弓を引き、ボニエクが矢となってゴールに迫っていく。

 最強の盾(伝統のカテナチオ)に最強の矛(革新の弓矢)を組み込んでも、まったく矛盾がない。こうして「破壊と創造」の合作が産み落とされた。

現る、救世主

画像: チャンピオンズカップを制したユベントス(写真◎Getty Images)

チャンピオンズカップを制したユベントス(写真◎Getty Images)

 プラティニは実質、半年足らずでユベントスの新しい「ロワ」となっていた。

 しかも、1年目から3シーズン連続でセリエAの得点王を獲得。世界で最も点の取りにくいリーグで、司令塔がトップスコアラーになったわけだ。いかに異例の存在だったかが分かる。

 2年目のシーズンを終えた直後の1984年夏には、祖国で開催されたEURO(ヨーロッパ選手権)で躍動。自らゴールラッシュを演じ、初優勝へ導いた。

 計5試合で実に9ゴール。そこには二度のハットトリックが含まれていた。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの「巨人」だった。そして、加入3年目のシーズンに悲願のタイトルをクラブにもたらすことになる。チャンピオンズカップ制覇だ。

 実は1年目のシーズンにも決勝に駒を進めたが、西ドイツ王者のハンブルクに敗れている。プラティニとその仲間たちにとっては、二度目のチャレンジだった。決勝の舞台はベルギーの首都ブリュッセルのヘイゼル・スタジアム。相手は連覇を狙うイングランドの名門リバプールだった。

 百戦錬磨のつわものをそろえた難敵である。それでも、ユベントスの面々は粘り強く戦い、1-0で栄冠をたぐり寄せた。虎の子の1点は、あの黄金ペアから生まれたものだ。プラティニが唐突に繰り出したロングパスからボニエクが独走。たまらず相手DFが後方から倒してPKが与えられ、これをプラティニがクールに決めてみせた。

 あとはリベロのシレアを中心にがっちり守りを固め、時計の針を進めていく。スコアといい、試合運びといい、いかにもイタリア風の勝ち方だった。

 いや、何よりも、たった一度の魔法で試合を決める伝説のファンタジスタがいた。人々がカルチョの流儀にアンビバレントな感情を抱くのも、どこかで「救世主」が現れるからかもしれない。

 そして、ヨーロッパの覇権を夢見ていたユベントスにも、ついに「彼」が現れた。プラティニという名の救世主が。

 しかし、プラティニ自身は、いまも歓喜の夜に複雑な思いを抱いている。それは「血塗られた夜」でもあったからだ。

 キックオフの約1時間前、スタンドで大惨事が起きていた。両軍のファン・サポーターが衝突し、やがて隅に追いやられた人々が、群集に押しつぶされていく。

 死者38人、負傷者も300人を数える悪夢。いわゆる『ヘイゼルの悲劇』だ。これほどの大事件が起きてもなお、試合が開催されたのである。

 人々の夢が一部の野蛮な人間たちに砕かれた――。後年、プラティニは悲痛な面持ちで語ったという。その意味では王者ユベントスも「犠牲者」だった。


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