上写真=ペレが神になった16年後、同じ場所でマラドーナは神になった(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真Getty Images
ただ一つのコンセプト
天才の、天才による、天才のためのワールドカップ――。まるでマンガのような世界だった。
黄金のカップを天高く突き上げた男の頭上に、メキシコの青い空が広がる。サッカー界の「新しい神」を祝福するかのように。あれは1986年だから、もう34年前のことになる。メキシコで開かれたワールドカップの覇者は、たった一つのコンセプトに基づくチームだった。
いかにして、天才のマジックを引き出すか。こうして、空前絶後のストーリーが幕を開けることになった。
その夜、コロンビアのベタンクール大統領が、テレビやラジオの全国放送を通じ、衝撃的な声明文を読み上げていた。
「わが国は、1986年ワールドカップの開催を返上する」
断念の理由は、経済情勢の悪化にあった。苦渋の決断と言うほかない。1982年スペイン大会の閉幕から、まだ半年も経っていない10月25日のことだった。突然、宙に浮いたホストのイスには、翌年5月のFIFA(国際サッカー連盟)理事会でメキシコが座ると決まった。だが、問題がなかったわけではない。大会前年の9月19日夜、記録的な大地震が首都メキシコシティを襲う。マグニチュード8・1。さらに、死者の数は7000人を超えたという。
それでも関係者の多大な尽力によって、無事開催にこぎ着ける。1970年大会以来、二度目となるメキシコ開催は、人々に「ある予感」を抱かせた。
4年前のスペイン大会で優勝したイタリアのベアルツォット監督が、半ばあきらめ顔で話す。
「わが国を含む、ヨーロッパ勢にとっては大変残念だが、この大会を制するのは南米の国だ」
厳密に言えば、南米の大国だろう。ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの3カ国である。だが、アルゼンチンの前評判は、決して芳しいものではなかった。
いや、祖国の人々ですら、代表チームの躍進を信じてはいなかった。試合のたびに人選がめまぐるしく変わり、内容も国民を納得させるものではなかったからだ。しかし、指揮官のビラルドは腹をくくっていた。ただ一つの答えにたどり着くために――。それこそ試行錯誤が必要だった。
忖度が生んだイレブン
いかにマラドーナの偉才を余すところなく引き出すか。ビラルドが腐心したのは、そこだった。
2次リーグのブラジル戦で相手MFのバチスタの腹を蹴り上げ、退場処分となった失意のスペイン大会から4年。精神的に成熟したマラドーナは、チームの大黒柱へ成長しつつあった。ビラルドは「10番」に加えて、キャプテンマークも与えている。言わば、信頼の証だった。
マラドーナは祖国で開催された1978年大会で自身を最終メンバーから外したメノッティ前監督に、強いわだかまりを持っていた。俺を信用していない――と。複雑な感情がプレーに悪影響を及ぼしていた節もある。承認欲求が気負いや独り善がりを招いて、自滅することもあった。
とにかく、信じること、自由を与えること。マラドーナを十全に生かそうとするなら、その2つが必要不可欠だった。
さらに、彼の周囲に誰を据えるか。ケミストリー(相性)の問題も無視できない。キャラクターやテリトリーの重なる味方が側にいては、持ち味を殺しかねない。
良き相棒、良き理解者は誰か。それを慎重に探る必要があった。自国メディアは司令塔のボチーニと新進気鋭のFWボルギを絡めた「黄金のトライアングル」を夢見ていたが、それでは理想のパズルが完成しないことを、ビラルドは分かっていた。
必要なピースは、ボチーニよりもブルチャガであり、ボルギではなくバルダーノだった。派手さはないが、マラドーナの脇を固めるには最適の駒たったわけだ。
確かに、本大会のメンバーリストにはボチーニとボルギの名前もあった。だが、周囲の雑音をかき消す「政治的配慮」に過ぎない。また、2大会連続でキャプテンを担ってきた歴戦の勇者パサレラをベンチに回してもいる。
ビラルドにマラドーナの自尊心をくすぐる意図があったかどうかは定かではない。ただ、ピッチの内外に真のリーダーを示す格好の「宣伝材料」にはなった。
指揮官の深謀遠慮、いや、絶対エースに対する忖度と言うべきだろうか。ともあれ、試行錯誤の末に『マラドーナのためのチーム』が出来上がった。