上写真=チームの得点源だったモリエンテス(左)とジュリ(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真Getty Images
「楽園」の小さなクラブ
サッカーにおいて、最も効率のいい攻め手は何か。縦パス一本で敵のゴールに迫る速攻だろう。
「何をおいても、それが攻撃側の第一選択肢になる」
そう語ったのは元日本代表監督のジーコだ。もっとも、守備側もそれは重々承知。だから、次善の策としてパスをつなぐ。
速攻か、遅攻か――とは本来、イデオロギーではなく、優先順位の話だろう。もっとも、計画的に「裏一発」を狙って、大きな成功を収めたチームも少なくない。ディディエ・デシャン(現フランス代表監督)が采配をふるった時代のASモナコ(フランス)もその一つだ。
急がば、急げ――。そんなキャッチコピーが似合うチームだった。再びハイラインが流行しつつある「いま」だからこそ、モナコのからくりは参照に値するシロモノなのではないか。
世界で二番目に小さな国――それが、地中海に面したモナコ公国だ。バチカンなどと並ぶ世界有数のミニ国家である。何かと話題のタックス・ヘイブン(低課税地域)の一角としても知られている。所得税を課されない個人居住者(外国籍)にとっては、ヘブン(天国・楽園)というわけだ。
就労人口は、わずか数パーセント。大半の国民は働いていない。それこそ「遊んで暮らせる」大金持ちばかりだからだ。彼らは「大衆のスポーツ」であるサッカーとは縁の薄い人たちと言ってもいい。そんな特異な場所にASモナコはある。
ホームスタジアムのスタッド・ルイⅡの収容人数は2万人に満たない。それでも毎試合、スタンドは空席だらけだ。クラブとしてやっていけるのが不思議である。いや、2003年には経営破綻し、2部降格の危機に直面していた。
それでも1部に留まることができたのは、モナコ王子アルベールが救いの手を差し伸べたからだ。スポンサー頼みの苦境を、王子の人脈で何とか乗り切っている。そんな王子の尽力が実ってか、モナコは突如、ヨーロッパの舞台で破竹の快進撃を演じることになる。
フランス勢の一角として挑んだUFFAチャンピオンズリーグ(CL)だ。次々と強豪クラブの足をすくうジャイアントキリングの連続。ついにはクラブ史上初のファイナルまで勝ち上がった。
その仕掛け人は、小さなクラブの、小さな指揮官。まだ30代半ばのデシャンだった。
小さなリッピ
小さな――とは、見た目の話。クラブにおけるデシャンの存在感は大きなものだった。
現役時代は「最強フランス」の押しも押されもしないキャプテンだ。1998年のワールドカップ制覇をはじめ、あらゆるタイトルを総なめにしてきた。この人ほど「勝者のメンタリティー」が脈打つフランス人もいない。2001年夏に引退すると、すぐに指導者へ転じ、モナコの新監督に就任する。
もっとも、1年目は散々な結果に終わった。最終順位は15位だ。そこで安易にクビを切らなかったのはクラブの英断だろう。
「選手たちは半ばバカンス気分だった。特に『高給取り』が働かなくて……」
デシャンの回想である。本人の言う一部の「高給取り」と衝突することもあった。相手側も、たかが新人監督と、デシャンをなめてかかった節もある。そこで2年目は余剰人員の整理に乗り出し、チームのスリム化を推進。事態を好転させ、リヨン、マルセイユと最後まで優勝争いを演じ、最終的に2位でフィニッシュ。15位からの大躍進を遂げて、CLの出場権を手にした。
わずか2年でチームをここまで引き上げるのだから、やはり並の指導者ではない。名選手、名監督にあらず――とも言われるが、ご冗談を、である。
デシャンの師と言えば、ユベントス在籍時に薫陶を受けたマルチェロ・リッピだ。事実、デシャン自身も「戦略面でリッピから多くを学んだ」と話している。采配はきわめて合理的。あの手この手を使い、僅差の勝負を物にする極意に通じた人だ。それこそ「小さなリッピ」である。
高度な戦術運用と独特の用兵術はいかにも師匠譲り。イタリア人を思わせるリアリズムをもって、下位に低迷するモナコを「勝てる集団」へと仕立て上げた。そんなデシャンの率いるモナコのハイライトとなったのが、就任3年目。アルベール王子に救われた2003-2004シーズンのことだった。
例のスリム化をさらに押し進める。イタリア人FWのシモーネなど「働かない高給取り」も一掃。デシャンの哲学がチームの隅々まで行き渡った、少数精鋭の一団を築いている。
派手さはない。戦いぶりは質実剛健。これといったスターもいない。モナコ王妃グレース・ケリーのデザインと言われるユニホームの洒落っ気とは対照的だが、デシャンのモナコはどんな強豪にとっても破り難いチームだった。