連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは、2000年代に隆盛を極めたACミラン。アンチェロッティ監督のもとで自在に戦い方を変えながら多くの栄冠を手にした。

上写真=アンチェロッティ監督のもとでミランは2度チャンピオンズリーグを制した。写真は02-03シーズン(写真◎Getty Images)

文◎北條 聡 写真Getty Images

よろずの戦法

 何かに特化すれば、それ以外はすべて捨てることになる。

 まさに一点突破。通用しなければ「終わり」である。それこそ、一か八かのギャンブルに近い。

 あるお笑い芸人が「仮想通貨」にほぼ全額突っ込んで撃沈――と、かつてネタになっていたが、サッカーではよくある話だ。1つの型(スタイル・戦術)に特化して戦う方が「普通」だからだろう。

 だが、彼らは違った。

 2000年代に黄金時代を迎えたミラン(イタリア)のことだ。機に臨み、変に応ずる――。1つの型に特化しない「マルチ戦法」の大家だった。

 ゼロ年代のサッカーと言えば、「4人×2ライン」の8人によるハードワークがベースになっていた。要するに、オーソドックスな4-4-2システムだ。

 ロールモデルは、1980年代の後半から1990年代の前半にかけて名将アリゴ・サッキが率いたミランにある。それ以前はほぼ架空のコンセプトに近かった全員守備を実装し、パラダイムシフトを起こしていた。

 それ以降の10年、ヨーロッパの多くのチームがサッキ・ミランのスタイルを継承していく。ところが、当のミランは新しい路線を開拓していた。

 先導者はカルロ・アンチェロッティだ。現役時代、サッキ・ミランの中核を担った名MFで、引退後に指導者へ転身している。言わば、サッキの弟子筋に当たる人物だ。レッジーナを皮切りにパルマ、ユベントスの監督を歴任し、2001年11月に古巣であるミランの指揮官となった。

 そこから、実に8年間にわたる異例の長期政権を築き、タイトルというタイトルを総なめにする。際立つのはチャンピオンズリーグ(CL)での実績だ。

 2002-2003シーズンからの5年間で優勝2回、準優勝、ベスト4、ベスト8が各1回という出色の安定感。間違いなく、この時代の最強チームだった。

 サッキの時代にも匹敵する実績だが、システムもスタイルも師のそれとは大きく違っていた。完全なオリジナル路線だ。伝統の籠城戦(カテナチオ)から総攻撃に至る、万(よろず)の戦法を操って、したたかに勝機をたぐり寄せる。1つの型に特化しない『最強ミラン2・0』とでも言うべきものだった。

ファンタジスタ×4の共存

画像: ポルトガルの偉才ルイ・コスタ。2000年代のミランの攻撃を彩った(写真◎Getty Images)

ポルトガルの偉才ルイ・コスタ。2000年代のミランの攻撃を彩った(写真◎Getty Images)

 アンチェロッティは「システムありき」というスタンスに与しない指導者だ。選手ありき――そこが、出発点になっている。就任2年目、指揮官は手に余るほどのファンタジスタを抱えていた。それがリバウド、ルイ・コスタ、セードルフ、ピルロだ。

 セードルフをファンタジスタに数える考え方には異論もあるだろう。仮にセードルフをリストから外しても、まだ3人もいる。リベラか、マッツォーラか。たった2人のファンタジスタの扱いをめぐり、賛否の両論が渦巻くのがイタリアという国である。1970年のイタリア代表における、リベラとマッツォーラの論争はあまりにも有名だ。

 2人でも持て余すファンタジスタを、3人(または4人)いっぺんに使え――。それが、オーナー(シルビオ・ベルルスコーニ)からの無言の圧力だった。

 先代のサッキなら、セードルフ以外の3人をベンチに座らせたかもしれない。あるいは、リバウドを2トップに一角に据えるかどうか。おそらく、それ以外の手はなかっただろう。だが、アンチェロッティはこの『ミッション・インポッシブル』をやり遂げる。サッキ式の定番である4-4-2を捨てて、新しいシステムの導入に踏み切った。

 それが4-3-1-2(または4-3-2-1)だ。リバウドとルイ・コスタをトップ下に並べて、セードルフを左のインサイドMFに持ってきた。3人をいっぺんに使うなら、こうする以外に手はなかったか。それでもなお、問題は残る。ピルロの使いどころがないからだ。

 ルイ・コスタとよく似たタイプのパサーで、中盤の一角に据えるには守備力に大きな不安がある。そうかといって、トップ下で使うのもリスクがあった。

 トップ下に対し、寄せ手の圧力が強まっていた時代である。線の細いピルロはそれをはね返すだけの強さに乏しく、技術と創造力は申し分ないものの、使いどころのない選手になっていた。

 だが、アンチェロッティはそのピルロを、中盤のど真ん中に組み込むというアクロバットな解決策を見いだした。本人のアイディアではない。ピルロの申し出を受け入れたものだ。

 当時の常識に照らせば、おいそれと受け入れられる類のものではない。だが、アンチェロッティは賭けに出て、見事に勝った。まさに大英断だった。


This article is a sponsored article by
''.