上写真=2004-2005シーズンにリーグ4連覇を達成したリヨンの選手たち(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真◎Getty Images
賢者オラスの公約
保守でも、革新でもない。そのど真ん中を一歩ずつ進んでいく。そんな「中道主義」が偉業達成への引き金だったか。
上もいれば、下もいる。この現実を踏まえつつ、いかにして理想に近づくか。中間勢力の在り方を、これほど見事に提示してみせたクラブも少ない。
賢い補強で人材流出のダメージを最小限に抑え、一定水準の戦力をキープする。その先に空前絶後の7連覇が待っていた。カネは出すが、口は出さない、という誠にクレバーなオーナーの方針が、類のない成功物語を紡ぐことになった。ゼロ年代に入り、フランス・リーグの覇権を独占した最強リヨンの黄金期。その道筋には、参照に値する「お宝」がいくつも転がっていた。
群雄割拠――いやいや、どんぐりの背比べ。かつてのフランス・リーグに付着したイメージだ。名門中の名門と言うべきクラブが見当たらない。1950年代はスタッド・ラーンス、1960年代はナント、1970年代はサンテチエンヌが強かった時代だが、近年は鳴りを潜めている。
1980年代に一時代を築いたボルドーも、いまでは古豪の域を出ない。パリ・サンジェルマン、モナコ、マルセイユら当代の強豪は、ことごとく1990年代以降に台頭している。
フランス第二の都市リヨンにあるオリンピック・リヨンも、その一つだ。転機は1987年。新たに会長職のポストに就いた実業家のジャン=ミシェル・オラスが、大胆な「公約」を掲げる。それが、1部復帰とヨーロッパのカップ戦への出場。当時、2部にくすぶっていたリヨンを「4年以内」に国内屈指のクラブへ押し上げるというわけだ。
果たして、2年で1部に復帰。4年目には見事5位に食い込んでUEFAカップ(当時)の出場権を手にしたのである。
オラスは「学習能力」の高い人だった。就任1年目に二度も監督交代に踏み切ったあげく、昇格に失敗。すると翌年にベルナール・ラコンブ(元フランス代表FW)をスポーツディレクターに据えて現場のいっさいを一任する。
以後、ラコンブがチーム強化に多大な力を発揮し、1989年からドメネク監督(のちのフランス代表監督)との二人三脚で成功への足掛かりをつかんだ。口は挟まずに、金だけ与えるオラスの英断だった。
昇格10年目の飛躍
決して目先の利益にとらわれない。オラスの方針には、そうしたイメージが色濃くある。
わずか1年で監督に見切りをつけたりしなかった。継続は力――と考えていたからか。オラスが会長に就任してからの20年に限ると、わずか2年足らずで解任したのはギー・ステファンだけ。あとは、いずれも2年以上チームを委ねている。
きっかり2年で退いたジャン・ティガナとジャック・サンティニも更迭したわけではない。ティガナはモナコに引き抜かれ、サンティニはフランス代表監督に指名されている。リヨンでの仕事ぶりを高く評価されたからだ。
国内有数の強豪へ飛躍するのは昇格から10年目。ラコンブSDが自ら指揮を執って3年目を迎えた1998―1999シーズンのことだ。リーグ戦で前年の6位から3位に躍進、UEFAカップでも8強入りを果たした。ここでオラスが「機は熟した」と見て、大型補強を試みる。
強豪バルセロナ(スペイン)で鳴かず飛ばずの状態にあったブラジル人の点取り屋ソニー・アンデルソンを獲得。国際的な知名度を持つ最初のタレントだった。
オラスの期待に応え、アンデルソンは23得点を記録して得点王に輝き、チームも2年連続の3位でフィニッシュ。このシーズンをもって、ラコンブが再びフロントへ戻り、本格的にタイトル争いへの準備を進めることになった。
前述したサンティニを新監督に迎え入れ、2位にランクアップ。そして、サンティニ体制2年目の2001―2002シーズンに初のリーグ制覇を成し遂げる。補強も手堅く、前年に獲得したセンターバックのエジミウソンが同胞のアンデルソンと前後の柱となり、開幕前には同じブラジル人のMFジュニーニョ・ペルナンブカーノを迎え、中盤を強化。ブラジル・コネクションで縦のラインを固め、バランスのいいグループへ仕上げていた。
前述のとおり、好チームをつくり上げ、初優勝の立役者となったサンティニが退任。だが、黄金期の幕開けはここからだった。