連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは1990—1991年にチャンピオンズカップを制したバルカンの赤い星、東欧史上最強のタレント集団レッドスター・ベオグラードだ。

黄金トリオが健在だったら…

画像: 91年のトヨタカップ先発メンバー。コロコロを寄せ付けず、優勝を飾った(写真◎サッカーマガジン)

91年のトヨタカップ先発メンバー。コロコロを寄せ付けず、優勝を飾った(写真◎サッカーマガジン)

 ヨーロッパ王者に輝いた直後、またもや大駒がクラブを去った。金髪の司令塔プロシネツキだ。移籍先は世界きってのブランド力を誇るスペインの名門レアル・マドリード。獲得の申し出を断れる道理が、なかった。

「もしもレッドスターが5年間、同じメンバーで戦うことができたら、彼らのヨーロッパ制覇を止められるクラブはないだろう」

 イビチャ・オシムが、そう語っている。当時のユーゴスラビアには、それくらいタレントがそろっていたわけだ。

 1991年冬、プロシネツキを失ったレッドスターは東京・国立競技場にて世界最強クラブの称号まで手に入れる。いわゆる、トヨタカップ(インターコンチネンタルカップ)だ。スコアは3-0。南米王者として乗り込んできたコロコロ(チリ)を寄せ付けなかった。

 幸い、黄金トリオの一角が残っていた。サビチェビッチだ。この試合で2点を記録し、マン・オブ・マッチに輝くユーゴビッチの先制点をアシストしている。

 右サイドに流れて球を引き出すと、鋭いターンからゴール前へ球を運んでいく。そして、後ろからライン裏へ抜け出すユーゴビッチの鼻先へ絶妙のラストパスを通してみせた。もう独壇場である。

 だが、前半終了直前に敵の挑発に乗って退場処分。レッドスターは10人での戦いを強いられることになったが、ここからの戦いぶりが実にしたたかだった。分厚く守り、機を見て鋭い速攻へ転じる。72分に左サイドを疾走するミハイロビッチの折り返しをパンチェフが押し込み、3-0。エースを失っても、10人になっても、勝つ術を心得ていた。

 これだけのベースが整っているうえに、あの黄金トリオ(ストイコビッチ、サビチェビッチ、プロシネツキ)が健在だったら、いったい、どんなチームが出来上がったのか。いまもって、想像せずにはいられない。

 最後の砦だったサビチェビッチまでがクラブを離れる(ミランへ移籍する)と、レッドスターに冬の時代がやって来る。サッカー界も、西ヨーロッパを中心に「戦術至上主義」の時代へ突入していくことになった。

 3人の天才がピッチ上で「そろい踏み」するコンセプトは、めったにお目にかかれないものとなっていく。だが、あれから20年の歳月が流れ、再び猛威を振るっているのは、攻撃のタレントを十全に生かすプランだ。

 傑出したタレントこそ、最強の戦術――。そう頑な信じたレッドスターの「星人主義」は、いかなる時代においても通用する代物かもしれない。

著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。


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