上写真=閉ざされかけていたフランス・ワールドカップへの道を開いたアウェーの韓国戦。先制点を挙げたのが名波浩だった(写真◎サッカーマガジン)
文◎平澤大輔(元サッカーマガジン編集長)
フランスへ進む3兄弟
目を閉じて少し思い返すだけで魅力的な中盤は次から次へと思い浮かぶけれど、私の思う最も“色気のある”ミッドフィールドは、このトリオだ。
山口素弘。名波浩。中田英寿。
1998年フランス・ワールドカップ出場を目指す日本代表で出会った3人。山口は横浜フリューゲルスで加茂周監督の薫陶を受けたボランチで、加茂監督が日本代表を率いることになってこちらでもチームの要石となった。名波はジュビロ磐田で攻撃のタクトを振るうレフティーで、ピッチを俯瞰する鳥の目と左足から繰り出すパスはどれも美しかった。中田は韮崎高校から加わったベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)ですぐに頭角を現し、世界を視野に入れる超攻撃的アタッカーとして、U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)、ワールドユース(現U-20ワールドカップ)、アトランタ・オリンピックと年代別世界大会を順に駆け上がってきた鬼才だった。
勝手な話だが、3人は兄弟のように見えた。寡黙で集団を冷静に見渡してポーカーフェイスのまま行動する長兄の山口、自らの理想に向かって力強く突き進むやんちゃな末弟の中田、その間に入って3人によるユニットに高度の機能性をもたらした気遣いの次兄としての名波。
2020年の現在、戦術論がとても盛んだ。「ポジショナルプレー」や「戦術的ピリオダイゼーション」や「岡田メソッド」など、さまざまな言説に触れることができて、私の凝り固まったサッカー脳がほぐされていくのがとにかく心地いい。
もちろん、どんな戦術も過去の知見の集積から生まれ出る「再発明」なのだという視座には強くうなずくわけで、そういえば最初にそんな「戦術論的パワーワード」に刺激を受けたのは、この山口・名波・中田のトリオについてだったなと思い出す。
「2・5列目」という発想
この日本代表は加茂がつくり、後に更迭されて、岡田武史が引き継いだ。どちらの監督も紆余曲折がありながら4バックと3バックを使い分ける中で、中田が加わった97年5月からフランスの本大会まで、この3人はずっとチームのコアとして信頼を得ていた。
中田と名波を「2列目」であるサイドハーフの位置に置き、ボランチの山口をその後ろの「3列目」に配したのが基本形。ここからマイナーチェンジを繰り返しながら、徐々にその立ち位置と役割を進化させていったのが名波だった。山口の左の少し前。中田の左の少し後ろ。この「約束の地」を名波本人が「2・5列目」という言葉で示し、中田の攻撃のサポートにも、山口の守備のパートナーとしても深く関わっていくと説明したときに、ぱっと視界が広がって、その動きに秘められた意図が可視化されたような気がしたのを覚えている。
そんな関係性によって生まれた忘れられないゴールがある。
97年11月1日、フランス・ワールドカップアジア最終予選第7戦はアウェーの韓国戦だった。1勝4分け1敗で迎えた日本は、負けるようなことがあれば夢が遠のく天下分け目の一戦だ。そこで開始1分に名波が先制弾を流し込む。
「2トップの後ろに控える北沢が相手の守備的MFを中央から右に引っ張り、空けたスペースに名波と中田が積極的に進出。相馬を左から引き出して常に数的優位を保ち、序盤からペースを握った」
「中田からの縦パスを受けた名波が左サイドに展開。これを受けた相馬の折り返しを、ニアに走り込んだ呂比須がディフェンダーを背にして巧みに流すと、走り込んだ名波が左足で合わせてゴール右隅に決めた」
「北沢が空けたスペースに名波が入り、タイミング良く飛びだした相馬が受ける。中央に飛び込んだ呂比須とカズのポジショニングも申し分なく、後方からフォローした名波がフリーで決めるという理想的な展開による先制ゴールだった」
(週刊サッカーマガジン1997年12月4日号増刊 ワールドカップ最終予選決算速報号より)
名波が概念としての「3列目」にいたままだったら、中田のパスを受けられなかっただろう。そのままゴール前に入ってシュートを放てなかっただろう。「2・5列目」という発想がもたらしたからこその輝けるゴールだった。