上写真=当時のサンパウロFCにはライー、ミューレル、カフー、トニーニョ・セレーゾらそうそうたるタレントが揃っていた(写真◎BBM)
文◎北條 聡 写真◎BBM、Getty Images
伝統のリベラリズム
極右でも、極左でもない。
あくまでも個人の自由を尊重する「リベラル」なチーム。世界の頂点へと駆け上がる。ブラジルの名門サンパウロのことだ。
トヨタカップ(注・インターコンチネンタルカップ)史上初の連覇。それも、バルセロナ(スペイン)とミラン(イタリア)という、ヨーロッパ屈指の強豪クラブをねじ伏せての偉業であった。
1992年、1993年のことである。そこで演じられたのは、新しい時代における、ブラジル人の、ブラジル人による、ブラジル人のためのサッカーだった。
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1990年代前半のサッカー界と言えば、まさしくグローバル化前夜。いわゆる(東西)冷戦時代が終わり、共産主義(社会主義)体制が次々と倒れていった。
だが、面白いことにサッカーの戦術史においては、平等に基づく「極左」のフットボールが台頭してくる。そのキャッチコピーは、こんな具合か。
「労働者よ、団結せよ!」
かの有名なカール・マルクスの『共産党宣言』の一節がしっくりくる。特権階級をつくらず、全員が等しくワークに徹する。極論すれば、労働者の、労働者による、労働者のためのサッカーだ。
貴族(ファンタジスタ)はその座を追われ、ピッチ上は労働者の戦場と化した。この、ヨーロッパ発の流れに追随するのか、抗うのか。南米(ラテンアメリカ)勢に好奇の目が向けられた時代、一人の名将が不振にあえぐサンパウロの再建に乗り出すことになる。
テレ・サンターナだ。
彼が目指したのは、労働者を含む「多様な個人」にドアが開かれたリベラルなサッカー。しかも、技術と創造力という、ブラジルの強みを決して手放さなかった。
当時、ヨーロッパ化が進みつつあったブラジルの「ブラジル化」と言ってもいい。そして、2部に低迷していたクラブを1部へ引き上げ、やがては南米最強クラブを決める、コパ・リベルタドーレスをも制することになった。
監督就任から、わずか3年目の1992年のことだ。ブラジル勢としては、実に10年ぶりの栄冠。名将の面目躍如だった。
枠に収まらないエース
巧みで、優雅に、しかも、相手に敬意を払って戦う――。
それが、サンターナの信条でもあった。だが、その美しく、攻撃的なサッカーは、果たして、時代の最先端を突っ走るヨーロッパ勢に通用するシロモノか。
その答えは、はるか地球の裏側で明らかになる。
真冬の東京で開催されるトヨタカップだ。対するヨーロッパ王者は、スペインの強豪バルセロナ。あの名将ヨハン・クライフの率いる『ドリームチーム』を相手に、見事な戦いを演じてみせる。
2-1。
逆転劇の主人公は、キャプテンのライーだ。一人で2得点を記録し、MVPを受賞する。この人こそ絶滅の危機に瀕していた『ナンバー10』だった。
1点目は左サイドをこじ開けたミューレルの折り返しを「腹」でプッシュ。決勝点は直接FKだ。美しいアーチを描いたボールが、ネットに吸い込まれていった。
およそ労働者(破壊者)にはできない芸当だ。まさに貴族(創造者)の面目躍如と言っていい。
面白いのはライーのポジションである。FWかMFか、その境界線が極めて曖昧。そうかと言って中間のトップ下に固定されていたわけでもない。
それこそ、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。自由気ままに現れては消える。言わば、既存の枠組み(システム)に収めにくいマエストロ(指揮者)だ。
指導者が扱い方を間違えれば、せっかくの才能を持て余しかねない。若くしてセレソン(ブラジル代表)入りしながら、サンターナと出会うまでパッとしない時期が続いたのも、おそらく、そのことと無関係ではないだろう。
サンターナは、この手のタイプの扱いに困るような指導者ではない。ライーの特異な個性を上手に組み込み、複雑なパズルを完成させていた。
「どうせ(車に)轢かれるなら、『フェラーリ』の方がいい」
試合後、独特の言い回しで勝者を称えるあたりが、クライフらしい。事実、美しく勝利したのは、サンパウロの方だった。