連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは、1992年、93年に頂点に立ったクラブ、サンパウロFCだ。個ありきの「ブラジル化」を果たした最強チームについて綴る。

短命のロールモデル

画像: のちに鹿島アントラーズでプレーし、監督も務めたトニーニョ・セレーゾ(写真◎Getty Images)

のちに鹿島アントラーズでプレーし、監督も務めたトニーニョ・セレーゾ(写真◎Getty Images)

 最後にもう一つ、触れておきたい特徴がある。それは、この時代ならではのメンバー編成だ。

 ざっくりと言えば「元海外組の実力者+国内組の有望株」という組み合わせである。1990年代の南米では、キャリアの最盛期にあるタレントが続々と海を越え、国内クラブの「空洞化」が加速しつつあった。

 実際、1990年のイタリア・ワールドカップに臨んだブラジルは海外組の集合体である。ワールドクラスの人材は国内にほぼ残っていなかった。

 最強サンパウロにしても、事情は同じだ。

 1992年当時のライーは確かに27歳の最盛期にあった。しかし、未完の大器ゆえに海外進出が遅れた格好。海外から引く手あまたの存在だったわけではない。

 世界的に名の通った実力者は、イタリアから戻った大ベテランのトニーニョ・セレーゾだ。これに続くのが、トリノ(イタリア)でふるわず、ブラジルへ舞い戻ったミューレルだろう。当時はカフーもレオナルドも、代表歴こそあったが、まだブレイク前夜の有望株と言っていい。

 ある意味、当時のサンパウロのチーム編成は、グローバル化時代における南米勢のロールモデルと言えた。キーパーソンは、経験値を手土産に祖国への帰還を果たす元海外組のベテランだった。

 ちなみに、打倒ミランをやり遂げた1993年のトヨタカップでMVPを受賞したのが、トニーニョ・セレーゾである。イタリア・セリエAの強豪(ローマとサンプドリア)で長く活躍し、カルチョの流儀を知り尽くす経験値の高さが、大舞台でモノを言った。

 当時と比べ、さらにグローバル化が加速した現代の南米クラブに至っては、若い現役のセレソンを抱えるのも難しい。ヨーロッパ勢との経済格差が広がり、元海外組の実力者を迎え入れるだけの資金力も乏しくなっている。

 かつてはヨーロッパ勢に拮抗した南米王者も、ローカルチャンプへ転落しつつある時代。最強サンパウロのリメイクなど、もはや夢のまた夢だろう。

 ジーコを筆頭に現役のセレソンを各所にそろえた最強フラメンゴ(ブラジル)のトヨタカップ制覇が1981年冬。それから、わずか10年後にサンパウロが提示した新たなロールモデルも、およそ10年でグローバリズムの荒波にのみこまれた格好だ。

 真の実力をもって、ヨーロッパ勢を蹴散らした、南米最後の最強クラブ。現代ではめずらしいリベラルなカラーを含め「時代遅れ」と切り捨ててしまうのは、あまりにも惜しい。そう思わせるチームだった。

著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。


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