連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人、試合を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは、1970年代後期から80年代にかけてヨーロッパのクラブシーンを席巻した『最強リバプール』だ。

2スピアヘッドの教本

画像: キーガンの後釜としてセルティックから加わったダルグリッシュ。77年から89年までプレーした(写真◎Getty Images)

キーガンの後釜としてセルティックから加わったダルグリッシュ。77年から89年までプレーした(写真◎Getty Images)

 黄金期のリバプールは、無類のタイトルコレクターと言ってもいい。名将ペイズリーの跡目を継いだジョー・フェイガン時代を含む8年間で、実に4度もヨーロッパの最強クラブになっている。
 反面、ワールドクラスと呼べるスターに乏しかった。最大の大駒は、初めてチャンピオンズカップを制したチームのキーパーソン、ケビン・キーガンだったか。

 もっとも、翌年にドイツの強豪ハンブルクへ移籍。黄金時代に最も貢献したのはむしろ、キーガンの後釜に座った「キング」ダルグリッシュだろう。

 リバプール随一の創造者だったダルグリッシュにしても、ミシェル・プラティニ(フランス)のような攻撃の全権を担う存在ではない。リバプールは、特定の個人に強く依存する「スターシステム」を採ってはいなかった。
 言わば「チームこそスター」という極めて現代的なチームでもあった。初のヨーロッパ制覇以降、主力の顔ぶれも少しずつ変わったが、ポジションごとの役割に大きな変化はない。

 選手の尖った個性より、チームカラー(固有のスタイル)が前面に表れていた。それが長期にわたり好成績を収める、無類の安定感の源だったか。
 人が代わっても役回りは変わらない。2トップは、その好例だろう。ジョン・トシャックとキーガンから始まる「弁慶と牛若丸」の組み合わせが、そうだ。

 戦術的意味合いなら「ポストとシャドー」である。黄金期で最も人的資源に恵まれた1983年のリバプールにおけるイアン・ラッシュとダルグリッシュの黄金ペアが、そうだった。
 トシャックとキーガンと同様、たった2人でフィニッシュへ持ち込む、卓越したコンビネーションを有していた。互いの全く異なる長所を引き出し合う、2スピアヘッドの教本だろう。

 ある意味、4-4-2フラットを機能させる上で「一心同体」と言うべき2トップの存在は不可欠と言っていい。その要件を満たしていたことも、最強リバプールが英国式フットボールのロールモデル(模範)になり得た一因だったかもしれない。

伝統と魂のプレッシング

 リバプールを特徴づける高速のパス・アンド・ムーブは、国内で敵のディフェンス網を面白いように切り裂いた。だが、強豪ひしめくチャンピオンズカップの舞台では、おいそれとはいかない。
 高速で球を動かすパスワークは時に技術がスピードに追いつかず「事故」を招くケースもあった。パスの質以上に、動きの質に支えられた攻撃の必然だったか。

 そこでチームの命綱となったのが堅固な守備。4人一組のラインを縦に2本並べた重層構造で四方を隙間なく埋める陣形の手堅さは4-4-2フラットの強み。そこにリバプールならではの要素が、加算されていた。

 前からの強力な圧力だ。現代風に言えば、プレッシングである。無論、現代のチームのように洗練されたものではない。
 反面、速く、激しく、タフで、粘り強かった。しかも、サボる人が、いない。文字どおりの「全員守備」である。球を失えば、誰もが等しく戦士になるわけだ。

 そもそも、激しい肉弾戦は英国式フットボールの伝統芸。そこにシャンクリー主義の「戦士の魂」が上乗せされていた。
 プレッシングは、球際の攻防を恐れぬイングランドの流儀と実に相性がいい。特権階級をつくらず誰もが労働者になるリバプールの守備は攻撃同様、極めて社会主義的なものだった。
 だから、人的にも、戦術的にもシステム(布陣)的にも、簡単に穴が生じない。一人ひとりが休みなく動いて球を狩るハードワークのディフェンスは、攻撃を看板に掲げるヨーロッパの強豪を大いに悩ませることになった。

 地味で、華やかさに欠けたが、その戦いぶりには、未来を先取りする要素があったと言っていい。事実、本格的なプレッシング時代の到来を告げる最強ミラン(イタリア)の台頭はリバプールの黄金期が終幕へと近づく1980年代後半のことだった。


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