1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第8回は1982年の読売クラブと日本サッカーの状況について綴る。

上写真=敵将も称賛したジョージ与那城のテクニック。読売クラブの攻撃力は日本トップレベルだったが…(写真◎BBM)

文◎国吉好弘 写真◎BBM

韓国は1983年にプロ化

 韓国のプロサッカーリーグはJリーグに先んじること10年、1983年にスタートしている。さらにその2年半前には最初のプロクラブであるハレルヤが誕生。韓国のプロテスタント系キリスト教「ハレルヤ協会」を母体に、国内のサッカーレベルの向上とキリスト教の布教を目的に結成された。

 まだ国内でプロリーグが始まっていない時期には、世界各国のプロチームと親善試合を行なって興行を実施しており、82年2月、日本の「プロ(を目指し、実際にそういった側面もすでにあった)」チーム、読売クラブとの対戦が実現した。

 このときのハレルヤは、MF李栄武(イ・ヨンム)を中心に元韓国代表のベテランを中心とし、プロになることで84年ロサンゼルス・オリンピック出場を目指す韓国代表でのプレーを諦めたGK趙炳得(チョ・ビョンドク)らの若手も含まれた強力な陣容。監督はかつて日本代表としてベルリン・オリンピックに出場した金容植(キム・ヨンシク)だった。

 2月は例年、国立競技場が使えない時期ということもあり、会場は同じ読売ではあるものの、プロ野球の巨人のホームスタジアムである後楽園球場だった。すでに人工芝が敷き詰められていた野球の聖地を間借りして行なわれている。

 読売クは日本リーグ(JSL)1部昇格から4年目を迎えた前シーズンに、リーグ、天皇杯とも準優勝と、タイトル獲得まであと一歩のところまで迫り、存在感を高めていた。

 ブラジル育ちのジョージ与那城、ルイ・ラモス(この時は負傷で欠場)、トレドを軸に、クラブで育った小見幸隆、松木安太郎、戸塚哲也、都並敏史など日本代表にも選ばれる選手たちでブラジルスタイルのサッカーを展開し、JSLでも異彩を放っていた。

スコア以上に痛感させられたもの

 当時でも注目度の高かった試合には、2万2000人の観客が集まった(2月28日13時にキックオフ)。立ち上がりはハレルヤが主導権を握り攻め込む。16分には戸塚からボールを奪って金喆用(キム・チョルヨン)が決め、先制。さらに30分にも申鉉浩(シン・ヨンホ)が強烈なシュート、これはGK中山良夫にはじかれたが、こぼれを李栄武が決めて2-0とした。

 しかし、後半に入ると流れが変わる。前半、失点のきっかけとなってしまった戸塚が奮起し、FKからのこぼれを左足で20メートルの距離から決めて1点差に詰め寄る。さらにその2分後には相手のハンドでPKを得て、追いつく絶好のチャンスを迎えた。だが、浜口和明のキックはGK趙炳得に阻まれてしまう。

 その後も読売クが押し込んだのだが、結局追いつくことはできずにタイムアップ。本物のプロとプロを目指すチームの差が出たか、ハレルヤの勝利で終わった。

 試合後、ハレルヤの金容植監督は「PKが決まっていたら負けていたかもしれない。読売クの後半の攻撃は素晴らしかった。与那城など技巧派選手が多いのに驚いた」(翌日の読売新聞より)と読売クのプレーを称えていた。だが、スピードと力強さに優るハレルヤの勝利は順当と言えた。1-2のスコアと結果は、そのまま当時の日本と韓国の差を表していた。

 翌年に韓国はプロリーグをスタートさせた。85年にはメキシコ・ワールドカップ出場を懸けて両国が最終予選を戦い、日本はホームで1-2、アウェーで0-1と連敗。スコアの上では接戦ながら内容的には完敗だった。その敗戦の衝撃から森孝慈日本代表監督がプロ化の必要性を痛感して、少なくとも自分の立場をプロ化するように日本協会に直談判する。しかし、時期尚早と跳ね返された。

 93年にJリーグが創設され、両国の差は急速に縮まることとなった。ただ、ライバルがプロ化してからおよそ10年という月日を費やさなければならなかったのも、事実である。


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