1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第3回は1968年の東西対抗戦について綴る。

上写真=多彩なパスワークを見せて西軍のゴールを演出した宮本輝紀。直後のメキシコ五輪でも活躍した(写真◎BBM)

文◎国吉好弘

1968年の東西対抗戦

 1993年に始まったJリーグでは、当初ファーストステージ(サントリーシリーズ)とセカンドステージ(ニコスシリーズ)の間に、「オールスターゲーム」が行なわれていた。基本的に加盟するチームを東西に分けた2チームが対戦する形式で、アマチュアの日本リーグ(JSL)時代に行なわれていた「東西対抗戦」を継続したものだった。

 JSL東西対抗はリーグ開始2年目の1966年に第1回大会が行なわれている。東軍が古河電工、三菱重工、日立本社、豊田織機、西軍が東洋工業、八幡製鉄、ヤンマーディーゼル、名古屋相互銀行というチーム分けで、新聞各社の担当記者による投票で出場選手が決められた。

 まだ外国人選手はどのチームにもおらず、トップクラスの日本人選手の多くがJSLに所属しており、大学生を除く日本代表のほとんどが出場した。サッカーが普及していない時代のことで、スター選手を集めて、できるだけ多くの人に関心を持ってもらおうと始められた大会だった。

 プロ野球のオールスター戦にヒントを得た部分もあっただろうが、東西対抗自体はJSL以前から存在し、関東、関西を中心とした選抜チームが覇を競った。その対抗意識は強く、戦後しばらくは日本サッカー界で最高峰の試合と位置付けられて、1948年に天皇杯が下賜された時も、当初は全日本選手権ではなく東西対抗戦の勝者に授与された。

 そんな歴史を持つ東西対抗が、JSLの一環として改めて行なわれるにあたっては、2試合を行なって両チームが1勝ずつを挙げた場合に、二つに割れて双方が半分ずつ持ち帰ることができる優勝カップを作製した。話題を作りのためだ。東西対抗戦を紹介する記事には狙い通り、そのことが取り上げられた。

 ところが、1966年の第1回大会は日本代表の主力が多く存在する東洋、八幡を中心とする西軍が2勝、さらに釜本邦茂がヤンマーに入った67年、68年はさらに西軍の力が勝り2勝する。

 ようやく第4回大会で東軍が勝つと今度は東軍が2勝し、その後も1972年までどちらかが2勝して、大会が一時中断されて再開された79年からは、1試合のみの開催となった。カップも新設されたために、ついに旧カップは分割されないまま、その役割を終えた。

銅メダリスト全員が出場

 JSL東西対抗戦は私にとって個人的に思い出深い大会である。というのも中学生のとき、初めて生観戦した試合だった。

 68年第3回大会、ちょうどメキシコ・オリンピックの年で、9月に行なわれた試合の1カ月後に日本代表はメキシコへ飛んでおり、そのメンバーの18人全員がこのときの東西対抗に出場していた(両軍にちょうど9人ずつ! 日本はメキシコ五輪で銅メダルを獲得)。つまり、この試合でオリンピック代表選手全員を見ることができたのだ。

 圧巻はやはり釜本で、この日6-0で大勝する西軍の3点を一人で叩き出した。そのシュート力には目を見張ったが、ちょっとひねくれたところのある中学生の目を最も引きつけたのは、その釜本に次々とアイディアにあふれたパスを出して得点をお膳立てしていた選手だった。

 宮本輝紀、八幡のゲームメーカーであり、日本代表随一の技巧派だった。インサイドキックで正確に、アウトでカーブを掛けて、チップキックで浮かせてと、様々なパスを繰り出した。その軌道と緩急の妙にサッカーの奥深さの一端に触れた気がした。その後現在まで50年も続く観戦の端緒となる試合だった。(文中敬称略)

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める


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