上写真=決勝で2ゴールをスコアしたジダン。第2戦の退場で2試合の出場停止はあったが、攻撃の中心としてフランスを初優勝に導いた(写真◎Getty Images)
「美」より「実」
1990年代と言えば、世界中にグローバリズムの波が押し寄せた時代。サッカー界も、そうした流れと無縁ではなかった。
1995年の「ボスマン判決」を機に、EU(ヨーロッパ連合)圏内の「移籍の自由化」が進む。結果、各代表を構成するタレントの多くが「国外組」となった。
フランスも、そうだ。そして、代表における多数派は当時、最も高い競争力を誇った「イタリア・セリエA」の面々である。
ジダンとデシャンの2人がユベントス、デイイーがミラン、チュランがパルマ、ジョルカエフがインテル、カランブーは前年にサンプドリアに在籍。スタメン組の半数以上を占めていたわけだ。
当時のヨーロッパ最強クラブとも言うべきユベントスの中心が、誰あろう、ジダンであり、デシャンであった。チームづくりに当たり、指揮官のジャケが、このユベントスからヒントを得ていたのは想像に難くない。
4人のDFと3人のMFの7人から成る、強力なプレスの包囲網で次々と球を狩り、縦への素早い展開から、ファンタジスタを経由して瞬く間にフィニッシュへ持ち込む。まさしく当時のマーケットを席巻する「勝利の方程式」そのものだった。
効率良く世界標準をハックしたフランスは、かつてない勝負強さを発揮していく。美より実を取る一団は、悲願のタイトルへ一歩ずつ近づいていった。
新しい「将軍」
「生か、死か」のノックアウトステージに入って、フランスの強みは、いっそう際立っていく。
パラグアイとの1回戦は延長の末に1-0。イタリアとの準々決勝は0-0のままPK戦。ここで運を味方につけて、しぶとく勝ち上がり、続く準決勝でクロアチアに2-1と競り勝った。
僅差の勝負をことごとくモノにする。手堅く、しぶとい、したたかな戦いぶりは、まるでイタリアのようだった。
自らも現役時代にユベントスで活躍し、カルチョの流儀を知り尽くしたプラティニが、言う。
「勝ってナンボ。それをイタリアから学んだのが今のフランスだ。素晴らしいプレーをしても勝てるわけではない。我々はそのことを、ようやく理解した」
そして、史上初めて駒を進めた運命のファイナル。フランスは、やはり難攻不落の要塞だった。前回王者ブラジルの攻撃を、鮮やかに封じてみせる。それも、全7試合で5つ目の「完封」だった。
意外だったのは、三度もゴールネットを揺らしたことだ。しかも3点のうち2点は、ジダンの頭から生まれた。
「個性の強いカントナを外したのも、内向的なジダンの潜在能力を最大限に引き出すためだった」
未来の『将軍』と心中――。ジャケの賭けは、見事に当たった。かつての『将軍』が言う。
「彼に欠けていたのは、ここ一番の決定力とタイトル。それを同時に手に入れた。間違いなく、世界最高の10番だ」(プラティニ)
世界標準型チームの、ただ一つのコピーしがたい領域。それが、ジダンの偉才だった。
アメリカ・ワールドカップ予選最終戦で逆転負けを喫し、本大会への道を断たれた悪夢から4年。「負けないフランス」が、そこにいた。勝者の精神を手にする「心の変革」もまた、グローバリズムの産物だったかもしれない。
著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中