7月に入り、日本人選手がヨーロッパのクラブへと移籍するニュースが続々と飛び込んできた。彼らの向上心に満ちた表情を見て成功を祈っていたら、あの頃の記憶が呼び覚まされた。日本サッカーの『過去』を個人の記憶とともに月ごとに振り返るコラム「Back in the Football Days」、7月編の今回は18年前の海外移籍を追いかけたひと夏の思い出をつづる。

上写真=2001年、アーセナルに入団した稲本。右はベンゲル監督(写真◎BBM)

芽生えの時代

 旅立ちの季節だ。FC東京からスペインの名門レアル・マドリードに移って世界的に話題を集めている久保建英を筆頭に、この夏、多くの日本人選手がJリーグのクラブから国外のクラブに活躍の場を求めた。

 GKシュミット・ダニエル(ベガルタ仙台→シント・トロイデン=ベルギー) 
 DF安西幸輝(鹿島アントラーズ→ポルティモネンセ=ポルトガル) 
 DF菅原由勢(名古屋グランパス→AZアルクマール=オランダ) 
 MF天野純(横浜F・マリノス→ロケレン=ベルギー) 
 FW鈴木優磨(鹿島アントラーズ→シント・トロイデン=ベルギー) 
 FW安部裕葵(鹿島アントラーズ→バルセロナ=スペイン) 
 FW中村敬斗(ガンバ大阪→トゥエンテ=オランダ)
 FW前田大然(松本山雅→マリティモ=ポルトガル)

 ほかにも、中島翔哉がカタールのアルドゥハイルからポルトガルに戻って名門FCポルトの一員となれば、10年に1人の逸材センターバックとも言える冨安健洋がシント・トロイデンからイタリアに渡ってボローニャを勝負の場に選んだ。柴崎岳もスペインでヘタフェを出てデポルティボ・ラコルーニャと契約し、再浮上を狙う。

 成功を求めて、成長を誓って、日本を飛び出し、勇躍する彼らに心からの声援を送りたい。

 そして、それと同じ気持ちになった18年前の夏のことを思い出す。2001年7月、小野伸二が浦和レッズからフェイエノールト(オランダ)に、稲本潤一がガンバ大阪からアーセナル(イングランド)へ移籍した。加えて中田英寿がローマを離れてイタリアで4年目のシーズンをパルマで送ることになり、西澤明訓がエスパニョール(スペイン)での挑戦に続いてイングランドのボルトンへと移った。月をまたいで8月には、高原直泰がジュビロ磐田からアルゼンチンの強豪ボカ・ジュニアーズに加入した。

 中田の活躍によって、トップクラスのリーグで日本のプレーヤーが活躍できるという「自信のようなもの」がサッカーファンや関係者の間に芽生えた時代。その自信を確固たるものにするべく、若きトップランカーが腕をぶして海を渡っていった。

 その意欲は彼らだけのものではなかった。身勝手な話だが、見守る私たち自身が新しい場所で輝きたいという気持ちを彼らに重ね合わせ、「自信の種」を託して花開くことをともに夢見た時代でもあった。

 そんな夢や高揚感、一体感といった「感情」に寄りかかって彼らの挑戦を語っていたのは、いまから思えば初心(うぶ)にも感じるわけだが、だからこそ熱くなることができた。

 彼らの行動に導かれたように、報道陣も同行取材に忙しくしていた。私もその一員となってヨーロッパに渡った。およそ1カ月、プレシーズンの時期に彼らがどんな思いで「外国人」として世界トップクラスのピッチで渡り合おうとするのか。その端緒に立ち会った。

稲本の移籍会見の翌朝には現地の各紙が大々的に報じた(写真◎BBM)

画像: アーセナルの当時のスタジアムはハイバリー。古いが趣のあるスタンドが迎えてくれた(写真◎BBM)

アーセナルの当時のスタジアムはハイバリー。古いが趣のあるスタンドが迎えてくれた(写真◎BBM)

トーマス・クック時刻表

画像: 稲本は、オーストリアのカフェンベルクという小さな町で、ローマとの練習試合に出場(写真◎BBM)

稲本は、オーストリアのカフェンベルクという小さな町で、ローマとの練習試合に出場(写真◎BBM)

 7月下旬にロンドンに入り、8月下旬にロッテルダムから戻る旅程だった。当時の資料を見返すと、フランスのパリを拠点にしてだいたい以下のような行程で移動と取材を繰り返していた。

 イングランド・ロンドン(稲本記者会見)→フランス・パリ→オランダ・ロッテルダム(小野記者会見、練習など)→パリ→オーストリア・ウィーン→オーストリア・グラーツ→オーストリア・カフェンベルク(稲本練習試合)→グラーツ→パリ→ロンドン→イングランド・ボルトン(西澤練習試合)→イングランド・マンチェスター→ロンドン→パリ→ロッテルダム(小野練習など)→パリ→イタリア・パルマ(中田試合)→パリ→スペイン・サンセバスチャン(小野練習試合)→パリ→ロッテルダム(小野開幕戦)

 現地での移動は鉄道を活用した。飛行機を使って時間を節約するメディアも多かったが、私とフォトグラファーはすべてを陸路で走破したことで、ヨーロッパの大地のスケールを刻み込むように体感できたのは大きな経験だった。

 この長期取材の「七つ道具」の一つが、トーマス・クック時刻表だった。運行情報を調べるのにいまではインターネット検索が当たり前だが、当時はヨーロッパの鉄道を幅広く網羅するこの時刻表がなければ予定を組むことはできなかった。ざら紙でできた赤い表紙の分厚いペーパーバックはかさばってしかたなかったけれど、円滑な取材スケジュールを組み立てるための命綱だった。

 これが初めての海外出張だったわけではないので、使い方は手慣れたもの。肌身離さず持っていて、いつでもすぐに引っ張り出し、小さな小さな黒い文字で示された時刻と町の名前とにらめっこ、乗り換えの時間をていねいに調べた。それでも、列車の遅延や運休は当たり前。予定通りに来なければまた引っ張り出して、の繰り返しだった。

 だから、ほかの記者の印象にも残ったようだ。現場でともに取材に回った記者仲間にはいまでも、「ヒラサワといえばトーマス・クック!」と笑われる。もしお互いに小学生だったらきっと、私のあだ名は「トーマス」とか「クック」になっただろう。

ビエラのイジり

画像: 小野伸二のファンへのお披露目は、上空からヘリで降りてくるという派手な演出だった(写真◎BBM)

小野伸二のファンへのお披露目は、上空からヘリで降りてくるという派手な演出だった(写真◎BBM)

 現地では主に小野と稲本の取材に時間を費やすことになるのだが、アーセナルでもフェイエノールトでも当時はまだクラブや選手がおおらかで、いまと比べれば比較的ゆっくり取材が許された。アーセナルのアーセン・ベンゲル監督は頻繁には入場を認めないロンドンの練習場に大勢の日本の報道陣を招き入れる異例の対応をしてくれたし、移籍会見の席では自ら「(キャンプ地の)オーストリアに皆さんでぜひ来てください」と誘い文句を口にした。

 もちろん、その誘いに乗った。グラーツの北西に位置するカフェンベルクという山あいの町に向かった。ASローマ(イタリア)と練習試合を行うのだ。

 当たり前の話だが、チームメートにはそうそうたるメンバーが揃っている。日本人としては初めてのメガクラブ加入と言っていいだろう。アーセナルはこの2001−2002シーズンでプレミアリーグとFAカップのダブルを達成することになるのだ。

 GKにはイングランド代表のデビッド・シーマン。DFにも同じくイングランド代表のソル・キャンベル、トニー・アダムズ、アシュリー・コールがいる。MFロベール・ピレス、MFパトリック・ビエラ、FWシルバン・ビルトール、FWティエリ・アンリといったフランス代表の中心選手、オランダ代表で一時代を築いたFWデニス・ベルカンプやMFジョバンニ・ファンブロンクホルスト、スウェーデン代表のMFフレドリック・ユングベリなど、本物のワールドクラスたちが稲本の同僚になったのだ。

 山に囲まれたカフェンベルクの小さなスタジアムに私たち日本の報道陣が何人もやってきたのを見て、ビエラは控室の前で「スーパースターが来たぞ!」と大声で稲本を冷やかした。その姿に突然、胸が熱くなったのを覚えている。私が世界のフットボールというものに対してまだまだ幼稚だったことは素直に認めるとしても、1998年ワールドカップと2000年EUROで優勝した偉大なチャンピオンが「イナ!」と呼びかけ、ふざけ合いながら東洋の若者を仲間に入れようとする気遣いがうれしかった。

 だから、自分でも変な話だと思うのだが、「日本サッカーの新しい時代の到来」が実感として胸に刻まれたのは、ピッチで堂々と駆け回る姿を見たからではなかった。スーパースターがともに戦う仲間である、という事実を象徴する「ビエラのイジり」のおかげだったのだ。

 フェイエノールトは、当時のアーセナルと比べればスター選手の数は少ないかもしれないが、オランダのビッグ3の一つである。

 このクラブにもキャプテンでオランダ代表のMFポール・ボスフェルトがいたし、デンマーク代表のアタッカー、ヨンダル・トマソン、コートジボワール代表のウイング、ボナバントゥール・カルー、オーストラリア代表のDFブレット・エマートン、そしてオランダ代表のストライカー、ピエール・ファン・ホーイドンクなどがいた。監督は後にオランダ代表を率いて2010年ワールドカップで準優勝に導くことになる名将ベルト・ファンマルバイク。このシーズン、彼らはUEFAカップを制するのだ。

 開幕前には、日本でいうところのファン感謝デーのようなイベントを取材した。小野はヘリコプターに乗ってホームスタジアム「デ・カイプ」のピッチに降り立つ派手な演出で登場、熱狂的なファンにあいさつした。すぐさま彼らを虜にして、練習後のファンサービスでは毎日、長蛇の列ができあがった。私はその様子を楽しげに見守りながら、ファンの輪が解けるのを待って声をかけるようにした。歴史のある強豪チームで、自分たちが思いを託した選手が愛されていく姿を見るのは、格別な思いだった。

 専門誌の記者として逆取材も受けた。小野の移籍記者会見が終わったところで、現地の記者から小野のプレースタイルについて質問を受けた。答えはテレビカメラの前で話してくれという。かすかな記憶では、簡易な英単語を切り貼りするようにして「小野は何でもうまいが、特にパスがうまい。ファンタスティックなプレーを見せる」というようなことを何とか伝えたはずだ。

 その日の取材を終えて、記者仲間と食事をしてホテルに戻り、資料でも整理しようかと思いながらテレビをつけて、びっくりした。自分が映っている。小野のおかげで私までヨーロッパでテレビデビュー……何か変な感じだった。

 このようにして、たくさんの刺激を受けながら、選手たちを取り巻く私たちも少しずつ意識の上で「欧州移籍」を果たしていったのだと思う。そして2019年、時を重ねてヨーロッパの舞台は当たり前に戦う場所になった。

 でも、いつでも本当の「世界」は私たちの伸ばした手の先にある。

 この夏、そこに追いつくために飛び出していった若武者たちの挑戦を、「現場の空気」をたっぷり吸った情報が各地から届くのを心待ちにして楽しもうと思う。

文◎平澤大輔(元週刊サッカーマガジン編集長) 写真◎BBM

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