上写真=左から澤登正朗、永井秀樹、秋田豊(写真◎サッカーマガジン)
東海大一が初出場・初優勝
1980年代に入り、清水東や清水商業(現・清水桜が丘)など静岡勢が全国制覇を果たす中、第65回(86年度)大会は、東海大一(現・東海大翔洋)が静岡代表として選手権初出場。すると、東海大一は決勝まで進出し、最後は国見(長崎)を破って初出場・初優勝の快挙を達成した。当時の東海大一には司令塔の澤登正朗のほか、決勝で直接FKでのバナナシュートを決めた三渡洲アデミール(当時はアデミール・サントス)、吉田康弘、内藤直樹、大嶽直人と、のちにJリーガーとなる選手を5人擁していた。
翌年の第66回(87年度)大会も決勝は同カードとなり、今度は国見がリベンジ。悲願の初優勝を飾った国見には、3年生の二宮浩、2年生の永井秀樹、1年生の原田武男と、各学年に将来のJリーガーがそろっていた。また同大会には礒貝洋光、本田泰人(帝京・東京)、財前恵一(室蘭大谷・北海道)、秋田豊(愛知・愛知)らも3年生として出場している。
第67回(88年度)大会は、昭和天皇崩御に伴い、準決勝と決勝がそれぞれ2日延期された。国中が喪に服す中で行なわれた“平成初”の決勝は、清水商業が市立船橋(千葉)に勝利。清水商業は主将の三浦文丈、2年生の藤田俊哉が攻撃をけん引し、市立船橋はエースの野口幸司がチームの顔だった。
80年代最後の選手権となった第68回(89年度)大会は、南宇和(愛媛)が四国勢として初優勝。南宇和の最終ラインをまとめたのは、のちにガンバ大阪で活躍する2年生DFの實好礼忠だった。なお同大会には相馬直樹(清水東)、下平隆宏(五戸・青森)らも出場している。
◆澤登正朗
澤登正朗(さわのぼり・まさあき)◎1970年1月12日生まれ、東海大一高校。第65、66回(86、87年度)選手権に出場。2年時の全国初戦、鮮やかなミドルシュートで先制点を決めて初優勝への第一歩を刻んだ。両足から繰り出す正確なキックで攻撃を組み立てた司令塔。Jリーグでは清水エスパルス一筋、13年間プレーした。現在は常葉大学浜松キャンパスサッカー部の監督を務める傍ら、解説者としても活動する
◆永井秀樹
永井秀樹(ながい・ひでき)◎1971年1月26日生まれ、国見高校。第65、66、67回(86、87、88年度)選手権に出場。細かいボールタッチと緩急を駆使するドリブルワークは、簡単には止められない威力を誇った。攻撃のキーマンとして、2年時にはチームを初優勝に導く。45歳まで現役を続け、引退後は指導者に。昨季途中から東京ヴェルディで指揮を執る
◆山口素弘
山口素弘(やまぐち・もとひろ)◎1969年1月29日生まれ、前橋育英高校。第65回(86年度)選手権に出場。開会式では選手宣誓の大役を務めた。Jリーグ開幕後は横浜フリューゲルスの主力として活躍。日本が初出場した98年フランスW杯では全3試合でピッチに立った。引退後は横浜FCで監督となり、現在は名古屋グランパスのアカデミーダイレクターを務めている
◆本田泰人
本田泰人(ほんだ・やすと)◎1969年6月25日生まれ、帝京高校。第64、66回(85、87年度)選手権に出場。守備職人のイメージが強いが、高校時代は攻撃面でも力を発揮。鋭いドリブルから巧みなパスでアシストするなど得点にも絡んだ。卒業後は本田技研に加入し、Jリーグ開幕前年の92年に鹿島アントラーズに移籍。鹿島では主将を務め、数多くのタイトルを獲得した
◆礒貝洋光
礒貝洋光(いそがい・ひろみつ)◎1969年4月19日生まれ、帝京高校。第64、66回(85、87年度)選手権に出場。1年時はセンターフォワードを務めて得点源となったが、3年時には中盤に下がって攻撃の中心に。技術の高さを生かし、アイディアあふれるスルーパスでチャンスを作った。Jリーグではガンバ大阪、浦和レッズでプレー。惜しまれながら29歳で引退した