上写真=2003-04のCL準々決勝・ミラン戦での4-0の大逆転は現在も語り草。2点目を決めて喜ぶバレロン(写真◎Getty Imgaes)
文◎北條 聡 写真◎Getty Images
人口約25万人の地方クラブ
かつてイングランドと言えば、4-4-2とハードワークが定番だった。では、かつてのスペインはどうか。
4-3-3とパスワークでは、ない。1990年代の終わりから一時代を築いたのが、サイドアタックと4-2-3-1だった。代表格は、人口25万人足らずのローカルクラブ。スペイン北西部のガリシア州にあるデポルティボ・ラ・コルーニャだ。
この小さなクラブが、レアル・マドリードとバルセロナの2強を出し抜いて、リーガの頂点を極める。1999-2000シーズンのことだった。クラブ史上初の快挙だが、そこで際立ったのが4-2-3-1というシステムの「自動化」である。ここから『スーペル・デポル』の黄金期が始まった。デポルと言えば長い間、1部と2部の往復を繰り返す、エレベータークラブの1つだった。転機は1988年夏である。
弁護士として財を成し、政界にも進出したことのあるレンドイロが新会長に就任。財政状況が改善に向かい、1部の強豪と渡り合う戦力が整うようになった。1992年にはブラジル代表で活躍するFWのベベットとボランチのマウロ・シウバを獲得。この大型補強が実り、リーガでレアルとバルサに次ぐ3位に食い込み、クラブ史上初のヨーロッパカップ(当時UEFAカップ)への出場権を手にした。
翌シーズンから2年連続で優勝争いを演じ、いずれも2位でフィニッシュ。そして、1996年夏にはパルメイラス(ブラジル)から大駒リバウドを引き抜く。ブラジル・コネクションだ。
だが、3位に終わり、エースのリバウドをバルサに持っていかれてしまう。すると、翌シーズンは12位に低迷。これが、新政権発足の引き金となった。
鬼才ハビエル・イルレタの登場である。1998年夏のことだ。この人こそ『スーペル・デポル』を手掛けた功労者と言っていい。事実、イルレタの率いた新チームはそれまでとは一味も二味も違っていた。
『イルレタ・ノート』
禁断の引き抜き――と言ってもいい。同じガリシア州のライバルでもあるセルタから、イルレタを「強奪」したからだ。低迷するセルタをわずか1年で6位に押し上げるなど、その手腕は折り紙付き。あの『賢者』と呼ばれた名将アラゴネスから多くを学び、独自の戦術理論を練り上げた異色の指導者でもあった。
印象深いのは、いつでもどこでも手放さぬ『イルレタ・ノート』だ。数々の知見を書き留めた分析書で、チームづくりを進める際の「虎の巻」でもあった。
こうした背景からも察しがつくとおり、超がつくほどの理論家。規律を重んじ、高度な組織力をチームに落とし込むことで、不確定要素をミニマム(最小限)に抑える手法を好んだ。
乱暴に言うなら「システムありき」である。攻守の両面で決め事が少なくない。別の言い方をすれば、やるべきことが整理されている。各選手がそれを消化してしまえば、きわめてオートマティックな戦い方が可能なわけだ。
当然ながら、チームを完成の域へ近づけるには相応の時間を要する。セルタを1年で上位に押し上げたのはむしろ、例外と言っていい。事実、デポルでも就任1年目は6位に終わった。
歴史を動かしたのは2年目だ。バルサを抑え、ついに初の栄冠を手にする。12節で首位に立ってから、一度もその座を明け渡すことなく、優勝へ突っ走った。
負け数は11。歴代の優勝チームではワースト記録だ。他の強豪クラブがことごとくつまずく幸運に恵まれたのは確かである。絶対的な強さに欠けたが、隅々まで行き渡る機能美には、それを補って余りあるインパクトがあった。一糸乱れぬプレッシングと、そこから繰り出される鋭いカウンターアタックは見事の一語。まるで台本をなぞるようだった。
いや、実際に台本(シナリオ)がある。それを実戦で手順どおりに進めるのは難しいが、デポルはそれをよどみなくやってのけた。
それだけ完成度の高いチームだった。仮にバグ(不具合)が生じても、それをやり過ごす手立てを持っていた。イルレタが――ではない。常に理論と実践の溝を埋めるのは当事者(選手)だ。
乖離しかけた理想と現実の辻褄を合わせる存在。それが、ピッチ上で自由奔放に振る舞う、1人のブラジル人だった。