1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第6回は1985年の住友金属でプレーした『大物』助っ人について綴る。

上写真=本文中にも出てくるイングランド代表のユニフォームを着るウエイト(写真◎J.LEAGUE)

文◎国吉好弘 写真◎BBM

193センチのストッパー

 Jリーグ開幕から四半世紀が過ぎ、鹿島アントラーズはJ屈指の強豪として君臨する。茨城県鹿嶋市という地方のクラブが多くのタイトルを勝ち取って、J1に居続けているのは関係者の努力のたまものだが、クラブを支える大きな存在がブラジル人のジーコであることは異論の余地がない。

「サッカー王国」ブラジルにおいてもサッカー史上の名選手であるジーコが、まだJリーグが始まる前の1991年に鹿島(当時)を本拠地として日本リーグ(JSL)で奮闘していた住友金属蹴球団にやってきた。

 そこから鹿島アントラーズとしてJリーグへの参加を認められたチームに選手としてばかりでなく、プロフェッショナルとしての姿勢を示す存在として大きな影響力を与え続けてきた。鹿島の関係者が今でも「ジーコイズム」と呼ぶ勝者のメンタリティーを植えつけた。

 そんなジーコの存在とは別に、ジーコより先に鹿島にやってきた「異邦人」がいた。デービッド・ヘンリー・ウエイト、こちらは「サッカーの母国」イングランド出身の当時30歳。その名を覚えている者もいまではほとんどいないだろうが、住金が初めてJSL1部を戦った1985年に来日した。

193センチ、90キロの巨体を生かした空中戦の強さとハードタックルで、相手ストライカーをつぶす英国流のストッパーだった。

 まだアマチュア時代で「助っ人」とはいっても、プロの経験はなく、住金への加入も英会話の教師としての仕事もこなしながらのことだった。

 とはいえイングランドの指導者のライセンスを持ち、アマのイングランド代表の経歴も備えており、2部から上がったばかりのチームにとっては貴重な戦力となった。

 当時の取材で本人は「エンフィールドというクラブでプレーして、アマチュアの全英大会で優勝したこともあります。決勝戦はウェンブリー・スタジアムでやったんですよ。FAカップでもウィンブルドンなどプロを破ったことがあります。でも、一番の印象深いのはアマのイングランド代表として、スコットランドやオランダと対戦したことです」と語り、A代表と同じデザインのユニフォームを着て見せてくれた。

まるでガリバー

画像: ウエイトは英会話教師の仕事もこなした(写真◎BBM)

ウエイトは英会話教師の仕事もこなした(写真◎BBM)

 JSLデビューとなった日産自動車との開幕戦では、優勝候補を相手に43分にCKからヘディングでつないで先制点をアシスト。後半にもチームは1点を追加して開幕から金星を挙げるかと思わせたが、ハードタックルが過ぎて2度目の警告を受けたウエイトが71分に退場処分となり、そこから流れが変わって2-3と逆転されてしまった。

 派手なデビューとなったが、その後は徐々にチームにも慣れてディフェンスの中心となり、このシーズンに優勝を飾る古河や読売ク、ヤマハといった強豪を破った試合でも勝利に貢献した。

 しかし、チームの成績は6勝3分け13敗で12チーム中の11位に終わり、1年で2部への逆戻りとなってしまう。ウエイトもこのシーズン限りでチームを離れることになり、残した通算成績は、出場18試合、2得点、2アシストというもの。

 突如、鹿島に現れたウエイトを当時のサッカーマガジンの千野圭一編集長は「まるでガリバーだな」と、ジョナサン・スイフトの空想小説の主人公に例えたが、今のJリーガーに比べて明らかに小柄だったJSLの中でも、大きな選手が少なかった住金ではまさにそんな感じだった。

 あれから30年以上が経った。健在なら65歳となるガリバーは、クラブワールドカップ決勝でレアル・マドリードと接戦を演じ、日本で最もタイトルを獲得しているクラブとなった鹿島の姿に、どんな思いを抱くのだろうか。


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