今年5月、セリエAで歴代2位となるゴールを記録しているローマの偉大なるバンディエラ、フランチェスコ・トッティが退団した。まだ「引退」を明言していないものの、現在までのところ身の振り方がはっきりしておらず、そのままユニフォームを脱ぐ可能性もささやかれている。
今からちょうど30年前、1987年6月21日に発売されたサッカーマガジン8月号には同年5月に突然、現役引退を発表した偉大なプレーヤーの物語が掲載されている。その名は、ミシェル・プラティニ。フランスが生んだ『将軍』は、長くユベントスでプレーし、トッティよりはるか昔に9番(ストライカー)の役割と10番(創造者)の役割を担う「9・5」番的ポジションをイタリアで確立していた。現在はサッカー界の『政治家』のイメージも強いが、間違いなく一時代を築いたスターだった。
サッカー選手の引退の形は多種多様だ。肉体的な限界が訪れ、キャリアにピリオドを打つケース。精神的に到達し(満たされ)、チャレンジ意欲を失うケース。本人の思いとは裏腹にプレーする場を失ってピッチを去る場合もあれば、ケガによって道を閉ざされることもある。
トッティはまだ決断には至っていないが、プラティニの場合は「喪失感」が引退を決める要因だった。web限定のサカマガ探訪企画、その第1弾として今回はプラティニの『決断』の物語を紹介してみたい。
「ボロ車になった。もう何もできなかったよ」
「プラティニ引退――」
1987年5月17日、全世界に衝撃的なニュースが流れた。イタリア・セリエA最終戦、ユベントスは本拠地のトリノ・コムナーレスタジアムにブレシアを迎えていた。優勝のかかった試合ではなかったが、スーパースター、ミシェル・プラティニの現役引退を飾るにふさわしい舞台ではあった。スタジアムは満員。主役・プラティニのゴールこそなかったものの、ユベントスは3-1で勝利を収め、英雄の花道に色を添える形になった。
プラティニの突然の引退発表は、ある程度予想されてはいたが、この時点で31歳。まだまだプレーしてほしいと願う声は多かった。事実を認めたくない多くのファンにとって、本人による引退宣言はやはり衝撃だった。それでも当の本人に躊躇はなかった。以前彼は「ユベントスをやめたら、スイスで少しプレーし(注:最初はアメリカでプレーしたいと話していたが、北米リーグが消滅したため、スイスとなった)、最後は原点に戻ってナンシーで自分のキャリアの幕を閉じたい」と語っていたが、そのプランも変更された。それもあまりにも突然に…。
その原因は何だったのか。諸説あるが、観察者からすれば、ワールドカップ・ショックが大きかったとしか考えられない。彼にとってワールドカップは唯一残された目標だったし、それに対する闘志も十分で86年のメキシコ大会に臨んでいたからだ。だが、またしても準決勝の壁を越えられず(フランス 0-2 西ドイツ)、その時点で張りつめていた糸がプツンと切れてしまったように映る。
くだんのブレシア戦後、プラティニは報道陣に対してその心境を語っている。
「試合することにもう喜びがなくなってしまった。試合中、奮い立たせる力がもうない。みんな僕の哲学を知っているが、自分自身がもうそれに忠実であることができないと思う。あと1年プレーすることに関心がなくなってしまったんだ」
「(引退を)決心したのは、去年(1986年)の9月だった。ただ単純にもう苦しみたくないという気持ちになった。これは精神的に、ではない。僕は肉体的には決して優れていなかった。ここまで達するために懸命にやってきた。でも僕の体にあったすべてのガソリンを燃やしてしまってたんだ。去年の9月でパンクさ。ボロ車になったプラティニには、もう何もできなかったよ」
「僕の最高の思い出? うーん、それは1972年6月22日にASナンシー・ロレーヌに加わったときだ(プラティニとって最初のチーム)。最高の試合? 1982年2月のイタリア戦(フランス代表の主軸としてプレーし2-0で勝利。1得点を挙げた)。あの日はやるべきことを、完璧にやったね」
実に淡々とした会見だった。本人は引退することに心の準備や割り切りができていたからだろう。それにプロのピッチでプレーすることはなくなるが、すでにその後の未来がはっきりと待っているのだから、余裕があって当然だった。
「明日からもう一つの人生が始まる。幸いにも、新たな活動の場を十分に持っている。フランスとそのほかいくつかのテレビ局とのプロジェクトがあるし、プラティニ・ブランドのスポーツウェア事業も成長させたい。スポーツ・レジャーセンターのアイディアもある。サッカーについては機会があったら、芝生の隅ででもボールを蹴るよ」
ペレでもクライフでもマラドーナでもない
プラティニはなぜスーパースターたり得たのか。引退に際してその足跡をあらためて記しておきたい。プレー面ではそのスリムな容姿にピタッと合うような華麗なプレーを見せてくれた。軽く蹴るキックは、ピタリと味方の動きに合ったし、ドリブルは流れるように軽やかだった。
「僕は決してペレにも、クライフにも、マラドーナにもなり得ない。彼らのような肉体的な資質を持っていないからだ。ペレのように体に恵まれていないし、クライフほどのスピードもない。もちろんマラドーナのような活力もない。僕はそういったものをまったく持ち合わせていないが、ただオールラウンドにプレーすることはできる」
肉体的には恵まれていないと言いながら、ヘディングの競り合いにも負けないし、フリーキックは芸術と称えられたが、プラティニの魅力は本人が言うように、まさにこのオールラウンドの部分にあった。右足でも左足でも頭でも得点できたし、前方にいるすべての選手を瞬時に見る目を持ち、40メートル離れている仲間にまるで2メートルしか離れていないかのようなパスを出し、得点をアシストした。豊かな想像力と技術の高さがあればこそ可能なプレーだろう。
そのキャリアの中でも輝かしい記憶として残るのは、1984年の欧州選手権(現EURO)だ。フランスの優勝は、同大会で9ゴールを挙げたプラティニによってもたらされた。彼がサッカー選手として偉大とされるその根拠が、この大会でのプレーや振る舞いに凝縮されていたように思う。
プラティニの恩師であり、良き理解者でもあるミシェル・イダルゴ元フランス代表監督も「彼が9得点を挙げた84年の欧州選手権ほど、彼の才能を象徴する大会もない。右足で3点、左足で3点、頭で3点だ。この事実こそ、彼が他の選手よりも優れていることの証明だ」と語っている。
また、そのキャリアを振り返ると彼のリーダーとしての統率力を見逃すことはできない。元来、チームワークを重視する選手だったが、ビッグゲームでは自らが得点を挙げることでチームを引っ張った。
1977―78シーズンのフランスカップ決勝『ナンシー 1-0 ニース』の決勝点を挙げているし、81-82シーズンのフランスカップ決勝『PSG 2-2 ナンシー/PK勝ち』でも2得点した。また、82-83シーズンのコパ・イタリア決勝『ユベントス 3-0 ベローナ』では2得点、前述した84年の欧州選手権の決勝でスペイン戦を2-0で下したが、決勝点を挙げたのはプラティニだった。さらに84-85シーズンの欧州チャンピオンズカップ決勝、ユベントス対リバプールで唯一の得点をスコアしたのも彼だ。大きな試合、ここぞというときに得点を挙げられる能力こそ、スーパースターになった理由であり、リーダーとして仲間をけん引できたゆえんではないだろうか。
そのサッカー哲学とは?
輝かしいキャリアを歩むプラティニについて、メディアが「ナンバーワン・プレーヤーだ」と騒いだとき、彼はこんなコメントを残している。
「自分自身でナンバーワンだと思ったことなど一度もない。チームスポーツには意味のないことだ」
そして「あなたのプレーには知性がありますね」と記者に問われると、自身のプレー哲学を語った。
「何をやるべきかを知ることが大切で、それができるかが問題だ。知るというのはビジョン(視野)で、できるというのは足(技術)だ。しかし、自分と同じ考えを持っているパートナー(仲間)がいなければ、意味がない。たとえば、僕が彼に向けて、ある地点にボールを出そうということを、百分の1秒で理解し、僕も彼がその場所に行くことを理解しなければ、すべては失敗に終わる。僕の目も、僕の技術も、良きパートナーがいなければ、無意味だ。だからフットボールはものすごく複雑なんだ」
プラティニが個人プレーではなく、チームプレーを重視してきたことがこの発言から分かるだろう。また、代名詞とも言えた華麗なフリーキックについてはこんな言葉を残している。
「(上達するには)まず第一に練習、常に練習、さらに練習だ。テクニック、心理面、どの位置からどう蹴るのかについても、すべて練習で養うしかない。そして相手の自信を崩すくらいに自分自身に自信を持つことだ」
『スーパースターは一日にしてならず』を証明する言葉の数々が、あらためてその偉大さを証明してもいるだろう。その引退を惜しむように、仲間たちが、世界のビッグネームたちが彼に言葉を送っている。最後にその一部を紹介しよう。
同時代の生きたブラジルの英雄、ジーコから。「一人のアーティストが去るときはいつも、一つの重要な章が閉じるときだ。プスカシュ、ガリンシャ、ペレ、クライフと同じように。私は2シーズン、イタリアでプレーしたが(ウディネーゼ)、彼の輝かしさやインテリジェンスを感じることができた。たとえば10回のうち9回は次の展開がどうなるのかを分かってプレーしたね。間違いなく、彼はあと1年はプレーできた。しかし、その判断は彼がすべきことだ。彼の将来の活動を祈っている」。
続いてユベントスで監督と選手の関係だったジョバンニ・トラパットーニ。「ミシェル・プラティニは1960年代の初めから私が出会ったすべてのエリートフットボーラーの中でも一番のオールラウンドプレーヤーだった。イタリアサッカー界の最高のスターだったジャンニ・リベラでさえ、プラティニのように幅広くはプレーできなかった。サンドロ・マッツォーラやフアン・アルベルト・スキアフィーノでさえ、3回も連続して得点王になれなかった」。
フランス代表でともに戦ったアラン・ジレスはこう言う。「彼に代わる選手はいない。彼は優れたフランス・フットボールの機関車だった」。
そして再び恩師ミシェル・イダルゴ。「いつも彼の才能が語られるが、その才能と真剣さ、努力を結びつけることを忘れてはいけない。彼はいつもトレーニングで一生懸命だった。これは若い選手たちにとっての良い模範だ。彼はファンに寛容で優しい男のイメージを残した。ミシェル・プラティニほど愛され、尊敬されたチャンピオンはいない。過去の偉大なプレーヤーたちとの比較において、順位をつけるのは難しいし、何の役にも立たない。ペレ、アルフレッド・ディステファノ、クライフ、それにプラティニは最高のプレーヤーだ。つまり、彼は時代を制した男だった」。
【Profile】ミシェル・プラティニ◎1955年6月21日生まれ、フランス出身。ナンシーでキャリアを始め、サンテチエンヌを経て、82年からプレーしたイタリアのユベントスで世界的なスター選手となった。83年から3季連続で得点王になり、バロンドールも同じく3年連続で受賞している。また、フランス代表としても84年に欧州選手権に優勝など実績を残した。引退後は、88年から92年までフランス代表監督を務め(監督資格を持っていなかったため、実質的な監督ながら最高管理者としてチームを率いる。その後、2007年にUEFA(ヨーロッパサッカー連盟)会長となり、さまざまな改革を行なうが、2015年に発覚したFIFA汚職事件に関与したとされ、8年間の活動停止処分を受けた(現在は4年に軽減)。
※1987年8月号の記事を加筆修正しています。