不定期連載『ボールと生きる。』では、一人のフットボーラーの歩みを掘り下げる。今回は昨季限りで18年の現役生活に終止符を打った太田吉彰の中編。ベガルタ仙台から古巣ジュビロ磐田への復帰、憧れの先輩との日々、そして引退の決意について綴る。

上写真=太田は2015年に古巣の磐田に復帰。J1昇格に貢献し、16年は34試合に出場した(写真◎J.LEAGUE)

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文◎杉園昌之 写真◎J.LEAGUE

沈黙するヤマハで戻ると直感

 2014年11月30日のJ1昇格プレーオフ準決勝。モンテディオ山形のGK山岸範宏が後半アディショナルタイムにCKから劇的な決勝ゴールをマークした瞬間、ヤマハスタジアムのスタンドに座っていた太田吉彰は言葉を失った。引き分けでも決勝進出という試合終了間際に、まさかの敗戦である。

 勝ち越しを許したジュビロ磐田は1年でのJ1復帰を逃した。スタジアムはもはや、威厳のある古巣ではなかった。ファン・サポーターはひどく落胆し、指揮官、選手たちも一様に肩を落とし、失意に暮れていた。J1を3度制覇した黄金時代を知る男にとっては、目の前に広がる光景が信じられなかった。

「すごく複雑な感じでした。でも、あのとき直感的に『俺はジュビロに戻るかもしれない』と思ったんです」
 
 そのわずか数日後。浜松の実家へ車を走らせていると、当時、磐田の強化部長を務めていた服部年宏氏から直接電話がかかってきた。まわりくどい説明などない。よく通る声でいきなり本題を切り出された。

「ジュビロに帰ってくる気はないか」

 その後、名波浩監督からも連絡を受けた。太田に断る選択肢などなかった。声を掛けてくれたのは、18歳のルーキー時代からお世話になっている大先輩たち。偉大なレジェンドからの誘いを断る理由などない。ベガルタ仙台から契約延長の打診を受けていたが、ほとんど即答だった。

「帰ります」

 カテゴリーは関係ない。磐田をJ2からJ1に引き上げることしか考えていなかった。

「ベガルタへの感謝の思いはありましたが、もう一度ジュビロでプレーして、育ててもらったクラブに恩返しがしたかったんです。ただ、あのタイミングで名波さんに誘ってもらったのは大きかったですね」

 仙台時代に調子を落としたときも、当時解説者だった名波氏に悩みを打ち明けていた。太田の試合をチェックしていた先輩の助言はいつも的確だった。

「お前は一人で何かできる選手ではないだろ。周りに生かしてもらうのが、お前のスタイル。周りを信じてやり続けるしかない」

 苦しんだ時期に開き直ってプレーできたのも、このアドバイスがあったからだ。6シーズンぶりに磐田に復帰したときも、入団会見で名波への思いを口にしていた。

「レジェンドはレジェンドのままでいてもらわないと困ります」
 
 気持ちでチームを引っ張ったOBの中山雅史(現アスルクラロ沼津)のような9番像に自らを重ね、15年シーズンは自身初のJ2でがむしゃらに働いた。ハードワークをいとわず、攻守両面でJ1昇格のために尽力。翌年はJ1で34試合フル出場を果たし、1stステージは8位とまずまずの成績を残した(年間13位)。同シーズンには磐田復帰後、初めて仙台と対戦。ホームではゴールを挙げるなど、2試合とも心に深く刻まれている。