ヒディンク・マジック
翌1988-89シーズンも国内リーグを制し、4連覇を果たした。同じ時期、指導者へ転じた青年監督のヨハン・クライフがアヤックスを率いている。
クライフは一度もPSVの牙城を崩せなかった。年齢で1つ上のヒディンクが、ひと足先に名将の地位を確立した格好だ。興味深いのは「元アヤックス」の面々が、当時のPSVにずらりと顔をそろえていたことである。誰あろう、クーマンがそうだ。
ファネンブルグもクライフの元を離れ、PSVに加入している。ソリが合わなかったからだ。
クライフと揉めてクラブを離れていった実力者は案外、少なくない。スペインの名門バルセロナの監督になってからも第二、第三のファネンブルグが現れている。逆にヒディンクは、人心掌握術に卓越していた。のちにオランダ代表で指導を受ける「アヤックス育ち」のフランク・デブールが、こう語っている。
「戦術について指導された記憶は一度もない。だが、彼のためなら火の中でも進んだ」
ちまたで言われる戦術家という評価以上に、人情家、情熱家らしい。決して、システムありきの人ではない。個々の尖ったキャラを生かしきる指導者だろう。やがて『ヒディンク・マジック』と呼ばれるマネジメントの妙が、すでにこの時代から見て取れた。
クライフのアヤックスは合理的なフットボールを展開する一方、どこか機械的な印象があった。良くも悪くも、枠から大きくはみだすような余白がない。
対照的にヒディンクのPSVは余白だらけ。最低限のルールさえ守れば、あとは自由。そうでなければ、フリットもクーマンもあそこまで大胆不敵なプレーはできなかっただろう。
ファネンブルグも右のサイドにずっと張ってプレーしていない。数多くボールに触って、リズムをつくるタイプの選手だった。ヒディンクの元では、神出鬼没や自由奔放が最大限に「容認」されていた。フリットがクライフの束ねるアヤックスにいたら、そうはいなかっただろう。
分かっちゃいるけど止められないアヤックスと、分からないから止められないPSV。優劣ではなく、互いの差異が際立っていた。そして両クラブの主力メンバーを融合させたオランダ代表が宿願のメジャータイトルを手に入れることになる。
1988年に西ドイツで開催されたEUROだ。PSVがチャンピオンズカップを制した直後のことである。オランダにとって、まさに記念すべき1年だった。
著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。