1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第38回は67年に史上最年少で得点王に輝いた木村武夫について綴る。

上写真=1967年、二十歳でJSL得点王に輝いた木村武夫(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

釜本邦茂を抑えて見事に戴冠

 1965年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)において、3シーズン目の67年に弱冠20歳の得点王が生まれた。古河電工に所属する木村武夫だ。埼玉県の川口高校を出て2年目の若武者はこのシーズン13試合に出場して15ゴールを挙げ、この年ヤンマーディーゼルに入った日本代表のエースストライカー、釜本邦茂の14点を抑えて見事に戴冠。20歳での得点王は、この後1992年まで24回を数えるJSLの歴史で最も若いばかりでなく、そののちに発足して現在に至るJリーグも含め、日本サッカー界のトップリーグにおける歴代最年少記録でもある。

 高校時代は全国大会出場経験のないほぼ無名の選手ながら、3年時の夏にユース代表の候補選手を選考する全国選抜地域大会が埼玉で行なわれたため、9地域のうちの関東選抜ではなく開催地枠の埼玉選抜で参加。チームは全敗ながらその能力を技術委員だった平木隆三に見いだされた。技術的には粗さがあったものの、100メートルを11秒台で走るスピードと高いジャンプ力を備え、独特の感覚で縦へ抜け出すドリブルで異彩を放った。

 66年のアジアユース大会に臨む日本代表にも選ばれ、平木の尽力で古河の系列会社に入り、JSLの古河でプレーすることになった。アジアユース出場のために出遅れながら、5月28日の第5節八幡製鉄戦でデビュー。第7節の日立本社戦で初ゴールを挙げてすぐにチームの戦力となっている。8月には日本B代表に選ばれてマレーシアで行なわれたムルデカ大会に出場。JSLでは10試合に出場して6得点6アシストの活躍で、年末にはアジア大会に臨む日本代表にも選出された。

 前年まで全国大会にも出場したことのなかった高校生が、この66年にはユース代表、日本B代表、そして日本代表と1年の間に3段階も駆け上るシンデレラストーリーを実現させた。アジア大会でもシンガポールとの3位決定戦でゴールを挙げて3位入賞に貢献するなど、日本代表にも定着する。

 そして迎えた2年目のリーグでは、開幕の八幡戦で当時日本代表のキャプテンだった八重樫重生のパスから先制ゴールを挙げ、3ー0の勝利に貢献すると、第2節、第3節では得点できなかったが、20歳の誕生日を迎えた翌日に行なわれた第4節の豊田織機戦でハットトリックを達成する。さらに第6節の日本鋼管戦で1点を加え、迎えた前期最終節はヤンマーとのアウェー戦。ここでも3点を決めて3-1の勝利に導く2度目のハットトリックを成し遂げた。前期を終えて7試合で10得点。得点王レースでは断トツのトップを走っていた。

 この後、日本サッカー界にとって重要なメキシコオリンピック予選があり、木村も参加するが、ほとんどの試合をベンチから見つめることになった。予選は釜本の大活躍などで宿敵韓国に競り勝って無事突破している。