1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第37回は85年に覚醒した西野朗について綴る。

突然の大復活!

写真は77年。アルゼンチンW杯予選の韓国戦でプレーする西野朗(写真◎サッカーマガジン)

 第12節は天皇杯をはさみ、明けて1986年1月に再開された。18日に大阪の長居で行なわれた全日空戦では52分にCKから、77分には左からのクロスに合わせていずれもヘディングシュートを決めて2ゴールで3-0の勝利の立役者となる。ここまでの6ゴールのうち4点がヘディング、足元のテクニックを生かしたプレースタイルながら182センチの長身を生かしたヘディングも強かった。

 第14節は東京・西が丘でのヤンマー戦で1-0の勝利の決勝ゴールを決め、ここまで6連勝とチームの順位も上げた。2月に入っての第15節では優勝争いを演じていた日本鋼管に1-5で完敗するが唯一のゴールを決めた。

 そして2月8日、西が丘での三菱戦で23分に小林正喜のシュートをGKがはじいたこぼれを鋭く詰めて押し込んだ。2-0で勝利する試合の先制ゴールで、ついに釜本の記録に並ぶ8試合連続ゴールを達成した。

 第17節のフジタ戦では得点なく記録は途切れてしまうが、第18節から20節までも3試合連続ゴールを決め、もしフジタ戦でゴールしていれば12試合連続で釜本を大きく引き離すことになったのだが、フジタ戦ではシュートも0だった。

 しかし、8試合連続ゴールは大きな話題となり、久々に「西野」の名がメディアに大きく取り上げられた。10代で日本代表入りし将来を嘱望されながら伸び悩み、日本代表も遠い存在となってしまった男の突然の復活だった。

 本人は後のインタビューで「若い頃は指導者にコントロールされていた部分が大きかった。年を重ねて自分のスタイルをもっと出したいというふうに変わっていって、それからのほうがいいプレーができた。シャドーストライカーというかトップ下が一番良かったかな。点が取れるようになったのは、割り切ったから。キャプテンもやっていたし、余計なことしないでフィニッシュに絡めるようにぷれーした。中盤に降りていったり、作ったりは省略して」と語っている。

 紆余曲折を経て、肩に力が入ることなく、のびのびと本来の力を発揮できたシーズンだったということだろう。この年は8シーズン目にして初めてリーグのベストイレブン(報知新聞選出)にも選ばれた。

 だが、チームはかつてのような補強もままならず、翌シーズンは最下位に沈み、87年、88-89シーズンは2部でプレー。西野もチームの事情でリベロとしてプレーするなど再び本来の輝きを見せることができなかった。

 1985年は選手時代の西野にとってJSLで唯一、輝いたシーズンだった。その才能を考えれば、もっと選手としての活躍を見たかったが、その経験は指導者として確実に生きている。(文中敬称略)

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。