上写真=アーセナルを下し、1999ー2000シーズンのUEFAカップを制したガラタサライ。トルコのサッカー史に輝かしい1ページを刻んだ(写真◎Getty Images)
文◎北條 聡 写真◎Getty Images
インペラトール
破竹の進撃は、まるでオスマン帝国の最強軍イエニチェリのようだった。寄せ手を次から次へと打ち破って、西ヨーロッパの牙城に迫る。そして、ついには「王冠」を奪い取ってみせた。2000年のことである。
史上初めてヨーロッパの優勝杯をトルコに持ち帰るクラブが現れた。UEFAカップを制した強豪ガラタサライだ。凱旋当日、古都イスタンブールはクラブカラーの赤と黄色の二色に染め抜かれたという。そして、人々は口々にこう叫んだ。
『アヴルパ・ファティヒ!』
ヨーロッパの征服者という意味だ。長く東の果てでくすぶってきた弱小トルコの夜明けだった。
西はヨーロッパ、東はアジア。ボスポラス海峡を挟んで両大陸にまたがるイスタンブールは不思議の国トルコの最大都市だ。ガラタサライの拠点は街を一望できるガラタ塔の西(ヨーロッパ側)にある。創設は1908年。母体は実に500年の歴史を誇る名門ガラタサライ高校(その昔の神学校)のサッカー部だ。
同じ西側にあるベシクタシュと東(アジア側)のフェネルバフチェとともに三大クラブの一角を占める。フェネルバフチェは商人、ベシクタシュは大衆、そしてガラタサライは要人に支持者が多い、と言われてきた。
だが2012年の調査によると、国民の41・8%がガラタサライの支持者だ。いまや、大衆を味方につけるトルコ最大の人気クラブというわけである。
リーグ優勝回数は1960年代と1970年代が各3回、そして1980年代は2回だけ。ところが、1990年代に入って国内の勢力図を一変させる。他を寄せつけない圧倒的な強さを誇ったからだ。10年間でリーグ制覇は実に6回。過去にも例がない黄金時代を築いている。
先導者が、いた。
熱血漢ファティフ・テリムだ。1996年夏に新監督に就任すると、見事な手腕を発揮し、空前のリーグ4連覇へ導くことになる。インペラトール(皇帝)の異名はただの飾りではなかった。
ルーマニア・コネクション
テリムは英雄だった。
トルコ代表監督就任から3年後の1996年。長く弱小のレッテルを貼られてきた祖国をEURO(ヨーロッパ選手権)の本大会へ手引きしたからだ。国際舞台への登場は1954年のスイス・ワールドカップ以来、42年ぶり。EUROの本選出場はこれが初めてのことだった。
信条は前のめりの攻撃サッカーだ。しかも勇猛果敢。よく走り、よく闘い、よく攻める。EURO終了後に監督に就任したテリムの手がけたガラタサライは、見本と言ってもよかった。
陣形は4-1-2-3。相手に激しく圧力をかけてボールを奪うと、素早く前線の3人につないで攻め込んでいく。迫力満点、見映えも十分。ツボにはまったときの破壊力はすさまじかった。
就任当初、代表の主力は前線のハカン・シュキュルと中盤の刺客トゥガイ・ケルモルくらい。主将のビュレント・コルクマズも代表では控えだった。そこでテリムは若手の有望株に目をつけ、次々と先発に抜擢し、未知の力を秘めるフレッシュな陣容を整えた。
FWのアリフ・エルデム、MFのオカン・ビュルク、ウミト・ダバラ、ハサン・シャシュ、DFのハカン・ユンサル、エルギュン・ペンベらがそうだ。また、10代だった逸材エムレ・ベレゾルを引き上げ、チームの柱に育てた。
トルコ人は総じて技術が高く、球際にも強い。ただ、国際試合では本来の実力を出し切れない弱みがあった。ハカン・シュキュルも国外に出ると別人のようになり、内弁慶と批判された。当時のトルコには、ヨーロッパへのコンプレックスがまだ根強くあったとも言われる。それを打ち消す契機となったのが歴戦の勇士たちの流入だ。
追い風は1989年の東欧革命である。ベルリンの壁崩壊を機に東欧諸国の共産主義政権が次々と倒れ、バルカン諸国のタレント群が西側諸国のクラブへ自由に移籍することが可能になった。
ルーマニア・コネクションも、その一つだ。テリム就任後、ガラタサライは外国籍選手を一新し、高い実力を備えるルーマニア代表のタレント群を迎え入れた。最大のヒットは2人のゲオルゲだった。当代きっての名手ハジと守りの要ポペスクだ。
「彼らの影響は計り知れない。特にハジの存在が、僕らトルコ人に大きな自信をもたらした」
ハカン・シュキュルがそう振り返る。加入当時ハジは31歳。ベテランの域に達してなお、魔法の杖(左足)は健在だった。
クラブに在籍するトルコ人たちが百万の味方を得たような気分になったのも道理だろう。こうして最強神話への布石が打たれることになる。