サッカー世界遺産では語り継ぐべきクラブや代表チーム、選手を紹介する。第35回は速さ、強さ、激しさでピッチ上を支配し、世界に覇を唱えた革新的なチーム。1987年から90年代前半のグランデ・ミランだ。

上写真=1988-89シーズンのチャンピオンズカップを制したミラン。後列スーツ姿の右から3人目がサッキ(写真◎Getty Images)

文◎北條 聡 写真◎Getty Images、サッカーマガジン

未知のイノベーター

 それまで常識的と思われていたフットボールが、一夜にして歴史の彼方に葬り去られたような印象すらあった。あれは1989年だから、もう30年前のことになる。ヨーロッパの最強クラブへ上り詰めたミラン(イタリア)の戦法が、全世界に衝撃を与えることになった。

 ミランは相手ボールになると、自陣に後退するどころか、敵陣へにわかに前進した。ボールという獲物を狩るためだ。しかも、次々と獲物を仕留め、すぐに敵のゴールへ迫る。ボールも、ゴールも、勝利も、栄冠も、ことごとく奪い取っていった。

 現代フットボールの扉を開いた戦術マニアの最高傑作。それこそグランデ・ミランのプレッシングフットボールだった。

 革新の担い手は、一人の指導者だった。アリゴ・サッキだ。

 プロ選手の経歴はない。指導者としてもセリエAに属するクラブを率いた実績はなかった。ところが1987年の夏、名門ミランの新監督に就任する。当時の会長シルビオ・ベルルスコーニの独断によるものだ。

 この異例の人事には伏線があった。前年の1986-87シーズンのコッパ・イタリアだ。ミランはサッキの率いるパルマに連敗し、敗退に追い込まれていた。

 セリエBに属するプロビンチャ(地方クラブ)に寝首をかかれた格好だ。ベルルスコーニは番狂わせに導いたサッキの手腕にただならぬものを感じ、周囲の猛反対を押し切って引き抜いている。サッキは苦労人だ。実父の経営する靴の製造会社で働きながら、独学で指導者の道を切り拓いている。周囲の懐疑的な意見に対し、こう言って反論した。

「良い騎手になるために、名馬に生まれる必要はない」

 実際、強気に出るだけの理由があった。独自の戦術理論だ。それも、カルチョの伝統とは似ても似つかぬ斬新なものだった。

ボールの位置に基づく移動

 1980年代のイタリアは、まだ『カテナチオ』の国だったと言ってもいい。マンマーキングで守る4人の守備者の背後にカバー役のリベロを据える戦術が主流を成していた。

 ところが、サッキはこの伝統をあっさり捨てている。人(マン)よりも、地域(ゾーン)を分割して守るゾーナルマーキングに価値を見出していたからだ。ただ、サッキのそれは普通とは違った。このゾーナルマーキングに『プレッシング』を組み合わせたのである。プレッシングとは敵に圧力をかけて、ボールを刈り取る企みだ。

 源流をたどれば、1960年代のオランダやソ連に突き当たる。先駆者として名高いのは、当時のオランダリーグでしのぎを削った2人の名将だろう。オランダ人のリヌス・ミケルスとオーストリア人のエルンスト・ハッペルだ。

 前者は強豪アヤックス、後者はその仇敵フェイエノールトの監督時代にプレッシングを採り入れている。ただ、当時のそれは単発的で荒削り。体系化が難しく、誰もが真似できるようなシロモノではなかった。

 サッキが手本にしたのは、のちにハッペルが手がけた改良版のほうだ。1983年のチャンピオンズカップで優勝した、西ドイツのハンブルクの戦法である。そこに独自のアイディアを盛り込んだ。最大の革新は、チームが一体の巨人のように動きながらボールを奪回する仕組みにあった。

 ボールの位置に基づき、10人のフィールドプレーヤーが規則的にポジションを移動する。こうして動く標的に絶えず照準を合わせながら、継続的にプレッシングを試みることが可能になった。人(相手)を見るな。ボールを見ろ――。

サッキはそう唱え、規則的な動きを選手たちに叩き込んでいる。訓練の一貫として、相手を置かないシャドープレーを採り入れた話はあまりにも有名だ。

 また、サッキは規則的なポジション移動に重要な要素を組み込んでもいた。コンプレッションだ。スペースの圧縮である。

 最前線から最後尾までの距離をコンパクト(約25~35メートル)に保ち、攻撃側から時間と空間を削り取った。これを組み込むことで、プレッシングの効力が格段に高まったわけだ。どれもこれも、現代の常識的な守り方と言っていい。だが、30年前はそうではなかった。始まりはサッキのミランだった。