マキナの時代のピリオド
偉大なる『ラ・マキナ』の終焉は一般的に1947年とされている。1941年の誕生から数えて4つ目のリーグタイトルを手にしたシーズンだ。
ただ、伝説のユニットは解体されている。ペデルネラがアトランタへ移籍し、レンタル先のウラカンから復帰したディステファノが初のセンターに就いた。
そもそも、例の5人が稼働したのは、わずか18試合にすぎない。1944年にはモレノがメキシコへ渡っている。カウボーイを意味する『エル・チャロ』のニックネームがついたのも、このメキシコ時代だ。そして、1946年の終盤にリーベルへ復帰している。
1947年は得点王を手にするディステファノの活躍で覇権奪回に成功したが、1948年は2位に終わる。そして、1949年にディステファノとモレノがそろってクラブを退団。マキナの時代に完全にピリオドが打たれた。
なぜ2人はリーベルを離れたのか。ストライキによって、リーグの機能が止まったからだ。
モレノはチリのウニベルシダ・カトリカへ移籍。ディステファノは、FIFA(国際サッカー連盟)に加盟していなかったコロンビアのミジョナリオスに新天地を求めた。そこでウラカンから加入した先達ペデルネラと「再会」を果たすことになる。
当時のミジョナリオスは、海賊リーグのクラブに過ぎなかった。それが破格の逸材を手にしたことによって空前の栄華を極めることになる。1952年のヨーロッパ遠征では、レアル・マドリードを4-2で破り、ワールドクラスの実力を満天下に知らしめた。
この黄金時代の愛称がスペイン語の『バレエ・アスル』だ。青のバレエ団という意味である。しかし、1953年にディステファノをレアルに奪われ、華やかな舞台の幕が下りた。では、その後のリーベルはどうなったか。1952年からリーグ連覇。1955年からは天才レフティーのオマール・シボリらを擁し、3連覇を成し遂げた。
マキナを超える偉業と言ってもいい。ところが、当時の人々からは『ラ・マキニータ』と呼ばれている。ひと回り小型の機械というわけだ。偉大なマキナには、実績だけでは届かぬ何かがあった。
それをよく知る人物の一人が、エルネスト・ラザッティだろう。当時のボカのアイドルだった男がこんな言葉を残している。
「何とか彼らに勝つことはできた。ただ、実際に戦うよりもむしろ、スタンドでいつまでも見ていたいチームだった」
彼らは敵のスター選手も虜にしたわけだ。まさにマヒア(魔法)を蔵するマキナだった。いかにも南米らしいトータルフットボールを演じた伝説のチームの真実が、そこにあったのかもしれない。
著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。