連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる今連載。第32回は、伝説として語り継がれるアルゼンチンのクラブを取り上げる。機械のようなプレーで勝利し、見る者を魅了した1940年代のリーベルプレートだ。

上写真=トータルフットボールを実現した伝説の『ラ・マキナ』の面々。左から3人目がディステファノ

文◎北條 聡 写真◎Getty Images、BBM

ミジョナリオス

 嘘か真か。はるか昔、南米発の『トータルフットボール』があったという。

 1940年代のことだ。第2次世界大戦(1939年-1945年)でヨーロッパが戦火に包まれた頃、南米の強国アルゼンチンに型破りの一団が現れる。

 各々のポジションは「ない」も同然。お互いの位置や役割を自在に入れ替えながら、誰もが守り、誰もが攻めた――というのだ。

 まさにトータルフットボールのそれである。しかも、10人の選手たちが精密なコンビネーションによって鎖のようにつながり、一体の巨人と化していた。それこそ、いまだ語り継がれるリーベルプレートの、最高傑作。伝説の『ラ・マキナ』だった。

 かつて南米サッカーの覇権は、広大なラプラタ河を挟んで二分されていた。アルゼンチンとウルグアイである。いや、世界の覇権を争っていたのもこの両国だった。1928年のアムステルダム五輪も、2年後の1930年に初めて開催されたワールドカップも、ファイナルは「ラプラタ決戦」だ。

 ただ、アルゼンチンはいずれも優勝を逃した上に、人材流出にも悩まされることになる。イタリア勢の引き抜きだ。これに歯止めをかけるため、1931年にプロ化へ踏み切っている。

 リーベルとボカ・ジュニオルスの『クラシコ』 (伝統戦)が始まったのも、この年だ。互いにブエノスアイレスの港付近で誕生し、創設当初は資金不足にあえいでいる。リーベルは仕事着(白地)の上に、赤の余り布をタスキ掛けにしてユニフォームに見立てたほどだ。これが、あの伝統的デザインの原型である。

 だが、プロ化元年のリーベルはもはや貧乏クラブではなかった。『ミジョナリオス』と呼ばれている。スペイン語で「億万長者」の意味だ。巧みな経営戦略で確実に資本を増やしていたのである。

 戦略とはマッチデー収入を活用した本拠地の移転だ。1923年に高級住宅街に近いアルベアール大通りに拠を移し、労働者ばかりか、富裕層も取り込んでいく。さらに1938年5月、7万人収容のモヌメンタル・スタジアムが完成。多額の興行収入がクラブへ転がり込むことになった。

 戦力も充実一途。豊富な資金力をバックに優秀なタレントをかき集め、ついに破格のチームを世に送り出すことになる。1941年のことだった。

図式は『1-10』

 プロ化から10年目。その節目のシーズンに、リーベルは圧倒的な強さで王者に輝いた。これが『ラ・マキナ』と呼ばれた伝説のチームの始まりである。マキナとはスペイン語で、英語ならマシン。つまり「機械」のようなチームというわけだ。

 設計図を描いた人がいる。

 カルロス・ペウチェレだ。監督ではない。この年をもって引退したリーベルの重鎮である。元アルゼンチン代表の名手だった。1930年のワールドカップで右ウイングとして活躍。決勝でも1ゴールを決めている。

 あだ名は『初代億万長者』だ。プロ化元年の1931年に高額の移籍金でスポルティボ・ブエノスアイレスから加入。この一件が、リーベルを『ミジョナリオス』と呼ぶ発端でもあった。

 それ以来、リーベルに貢献してきた功労者は、マキナの生みの親のひとりとしても名を残すことになる。新米監督のレナト・チェザリーニが彼の提案した戦術プランに沿って、当時のチームに修正を施したからだ。

「われわれは全員で上がり、全員で下がる。黒板の上でも、ピッチの上でも。戦術的な図式は古臭い1-2-3-5なんかではない。言わば、1-10だった」

 ペウチェレの弁だ。南米の代表的な作家で、ジャーナリストでもあったエドゥアルド・ガレアーノが著書『スタジアムの神と悪魔』で、そう伝えている。

 1-2-3-5の「1」はGKで、通常は2-3-5と表記される。いわゆる『ピラミッド・システム』のことだ。

 もっとも、当時は前線の5人が横一列に並んでいない。現代風に言えば、2-3-2-3。インサイドフォワードが2列目に落ちている。この配置をアルファベットに変換すれば『W-W』だ。

 マキナの布陣も便宜的にはこれだったが、人の出入りがめまぐるしく、とらえどころがなかった。ペウチェレの発案か、偶然の産物かは定かではない。しかし、ある選手のコンバートが契機となったのは確かである。

 その男が、フォワードのアドルフォ・ペデルネラだ。従来はインサイドの担い手だったが、ペウチェレの提案でセンターに居場所を変える。ここから、マキナの歯車が勢い良く動き始めた。