連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回はのちのサッカー界に大きな影響を及ぼしたチームを取り上げる。中央ヨーロッパの「驚異の」チーム、1930年代のオーストリア代表だ。

ホーガン・コード

1936年、選手を指導するジミー・ホーガン(右/写真◎Getty Images)

 21勝6分け3敗。これが3年間に及ぶ『ヴンダーチーム』の戦績だ。事実上の終焉は、1933年4月に敗れたチェコスロバキア戦との見方もある。

 1-2。完封負けではなかったが、自慢のフォワード陣が初めてノーゴールに終わっている。何かが狂い始めていた。

もう1つの敗戦は、1932年12月。ホームでの不敗神話を誇る母国イングランドとの一戦だ。

 3-4。内容では圧倒したが、鋭いカウンターアタックに沈んでいる。当時のイングランドでは、戦術革新が起きていた。

 いわゆる『W-Mシステム』である。1925年のオフサイド・ルール改正に伴い、ピラミッド・システム(2-3-5)に改良を加え、3バックを導入した。

 現代風の表記は3-2-2-3である。人の配置をアルファベット(WとM)に見立てた。考案者はアーセナルの名将ハーバード・チャップマンだ。数年がかりで、完成形にたどり着いている。

 また、イタリアでは別のシステムが登場する。メトドだ。ワールドカップでイタリアを連覇へ導いたポッツォの考案だった。アルファベットに置き換えれば『W-W』である。こちらの表記は2-3-2-3だ。人の配置は現代の4-1-2-3(4-3-3)に近い。

 実に8カ国語を話すなど語学に堪能だったマイスルは、チャップマンやポッツォらと親交を深めていたという。おそらく時代の変化には敏感だった。

 ただ『ヴンダーチーム』の革新はホーガンが手掛けている。それは数字やアルファベットには置き換えにくい。人の配置を流動化させるアイディアだったからだ。そこに『トータルフットボール』の萌芽があった。

 ホーガン・コードを解くカギは「偽9番」を思わせるシンデラーの動きだろう。それは1950年代のハンガリーで実装されることになる。だが、先駆者シンデラーはそれを見ていない。

 すでに亡くなっていたからだ。恋人のカミラ・キャスタラノとともにウィーンのアパートで遺体が発見されたのは、1939年1月23日のことだった。

 事故死とされたが、自殺との説もあり、謀略説もささやかれた。真相は分からない。ただ、祖国がナチス・ドイツの手に落ちてから数カ月後に悲劇が起きたのは確かである。同じユダヤ人のマイスルも、すでにこの世になかった。

 こうして『ヴンダーチーム』は二度目の終焉を迎えている。しかし、その遺伝子は連綿と受け継がれ、絶えることがない。

 シンデラーの死から、91年目となるいまも――。

著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。