1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第25回は古河電工の初優勝と奥寺康彦について綴る。

上写真=古河の初優勝に大きく貢献した奥寺康彦(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン

きっかけになったブラジル留学

 1965年に日本リーグ(JSL)がスタートした時、優勝候補に挙げられていたのは前年の天皇杯で優勝を分け合っていた古河電工と八幡製鉄だった。中でも古河にはGK保坂司、FB(DF)平木隆三、鎌田光夫、宮本征勝、HB(ハーフバック)八重樫重生、FW川淵三郎と前年の東京オリンピックに出場した日本代表選手が6人もおり、日本代表の監督を務める長沼健、66年にはチームの監督を兼任する内野正雄ら元日本代表のベテランも選手としてプレーしており、机上の戦力分析では筆頭候補だった。

 しかし実際にリーグが始まると、若い選手が多く、力をつけてきた東洋工業が第1回の優勝を果たし、さらに勢いを得て4連覇を達成する。5年目の1969年は三菱重工に覇権を譲るが、70年には5回目の優勝を果たした。さらにヤンマー、日立などが力をつける陰で、ベテランぞろいだった古河は徐々に存在感を失っていく。1965年、66年は3位、67年は2位で終えたが、1968年には5位に落ちて以後「中堅チーム」として定着してしまう。

 1970年代にさしかかると、69年に荒井公三(広島工業高)、70年に奥寺康彦(相模工大付属高)、71年には高校選手権で優勝し、劇画「赤き血のイレブン」のモデルになったことでも知られた浦和南高校の永井良和が入社。後には日本代表でも主力となる選手たちが加わり、チームは若返っていく。73年には大卒の清雲栄純(法政大)、須佐耕一(中央大)、らを加え、70年代半ばには川淵三郎監督の下、20代前半の選手が中心のチームとなった。

 それでもチームの成績はなかなか上がらず、73年5位、74年4位、75年6位と中位をさまよっていた。そして76年にはメキシコ・オリンピック銅メダリストの鎌田光夫が監督を引き継いだ。

 チームに変化が起こった一つのきっかけは、奥寺のブラジル留学だった。76年シーズンがモントリオール・オリンピック予選の関係でリーグが8月スタートとなったこともあり、1月から3月までサンパウロのパルメイラスで、トレーニングに参加した。本場での厳しさ、激しさを肌で感じて帰国すると、一回り成長した姿を見せた。もともと俊足で、体は強く柔軟、さらに技術的面では左足の強く正確なキックという武器を持っており、世界でも自分が通用する部分を確認できたことは大きかった。

 日本代表はモントリオール予選で敗れて二宮寛監督による新体制となり、奥寺も一時外れていた代表に復帰する。夏に参加したマレーシアのムルデカ大会では大活躍した。同大会は当時、アジアの代表チームのチャンピオンを決めると言える価値があった。この時の日本はチーム最年長の釜本邦茂が2列目に下がり、最前線でプレーした奥寺がゴールを量産した。日本は決勝に進出し、地元マレーシアに敗れたものの、準優勝は久々の好成績だった。そこで奥寺は7点を挙げて得点王に輝いた。