謳歌した「青春」
ヨーロッパ最強クラブの称号を得て、およそ半年――。ユベントスは世界の頂点に君臨する。
12月のトヨタカップで優勝したからだ。ヨーロッパと南米のクラブ王者が争うインターコンチネンタルカップのことである。勝敗の行方は延長にもつれ込んでも決まらず、ユベントスがPK戦を制した。最後のキッカーは、もちろんプラティニだった。
しかし、この日のハイライトは最後のPKでも、両軍が生み出した4つのゴールでもない。主審に取り消された幻のゴールだ。
プラティニがボックス内で、胸トラップから右足でボールを浮かせて2人のDFを手玉に取ると、その落ち際を左足で叩いてネットに突き刺した。まさに超絶技巧。華麗なる一撃だった。
だが、判定はオフサイド。味方が主審に詰め寄って激しく抗議する中、プラティニはピッチに寝そべって、おどけたポーズを取っていた。翌日、その写真が世界中のグラビアを飾っている。何をやっても、絵になる男だった。
カテナチオとファンタジアという「現実と理想」を見事に両立させたユベントスが、この世の春を謳歌した時代。トヨタカップ制覇は、そのピークだった。
そして、プラティニは3年連続でバロンドール(ヨーロッパ年間最優秀選手賞)を受賞する。先人たちが誰も成し得ていない快挙でもあった。
しかし、翌年から次第に輝きが薄れ、1987年の夏にスパイクを脱ぐ。加入から5年。32歳という若さでの引退である。それは同時に黄金時代の終幕でもあった。フランス人の固い決意を知るや、アニエリは本人にこう懇願している。
「君が望むなら『フィアット』でも『フェラーリ』でもいい。社長のイスを用意するから、イタリアに残ってほしい」
余談だが、イタリアの大手自動車メーカーは、軒並みアニエリの祖父が設立した『フィアット』の傘下にある。無論『フェラーリ』も、その一つだ。
しかし、プラティニはこの申し出を丁重に断って、祖国へ戻る。以来、アニエリは「新たなロワ」を追い求め続けた。
ロベルト・バッジオ、ジネディーヌ・ジダン、アレッサンドロ・デルピエロ――。いずれもファンタジスタの系譜に連なる、希代のタレントだ。
しかし、アニエリにとっては、プラティニだけが「手中の玉」だった。彼以上のファンタジスタは後にも先にもいないーーと。
著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。