マラドーナの姿をした神
まさに雨が降ろうが、槍が降ろうが――である。ファウルを浴びても、平常心を失わない。
我を忘れ、全世界の前で赤っ恥をかいた4年前の姿は、どこにもない。あのメノッティが言う。
「大人に成長した円熟味と冷静さには、驚かされるばかりだ」
それこそ、指揮官のビラルドがマラドーナとの「心中」をためらわなかった理由でもあるだろう。西ドイツとの決勝は、その決断の正しさを証明するものだった。
刺客マテウスにしつこく狙われても、どこ吹く風。むしろ、激しいマークを逆手に取るインテリジェンスが際立った。
少ないタッチで次々とボールを離し、飛び込む隙すら与えない。マテウスなど、そこに「いない」も同然だった。
そこでマテウスがマークを離すと、すかさずドリブルを仕掛けていく。主導権は完全にマラドーナの手の中にあった。
2-0とリードを奪ってから、粘る西ドイツに2-2の同点とされた3分後の84分、アルゼンチンに決勝点が転がり込む。絶妙のラストパスでブルチャガのとどめの一撃を導いたのは、ほかでもないマラドーナだった。
タイムアップの笛が鳴り、スタンドからピッチ上に雪崩れ込んできた群衆にかつがれ、歓喜に酔いしれる。それは、16年前の光景を思い起こさせるものだった。
偉大なる『キング』の戴冠式。1970年メキシコ大会でブラジルを優勝へと導いたペレである。あれから月日はめぐり、サッカー界に君臨する「もう1人の神」が同じアステカ・スタジアムで生まれたわけだ。
もっとも、アルゼンチンが送り出した「新しい神」は、キラ星のごときタレント群が脇を固めていたペレとは違う。チームにおける影響力の大きさは、ペレのそれをはるかにしのぐものだった。
ゆえに『マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのためのワールドカップ』と呼ばれることになる。すでに「用済み」として歴史のゴミ箱へ捨てられつつあるスターシステムが、まだ力を持っていた時代のことだった。
天才の、天才による、天才のためのワールドカップなど、もはやおとぎ話なのか。24年後の夏に、この問いに向き合う男がいた。リオネル・メッシだ。
先代(マラドーナ)をも超える史上最高のフットボーラーと称えられて久しい。果たして、ロシア大会は『メッシの、メッシによる、メッシのためのワールドカップ』にはならなかった。この先も、続く存在はしばらく現れないのだろうかーー。まさに「神」のみぞ知る、である。
著者プロフィール◎ほうじょう・さとし/1968年生まれ。Jリーグが始まった93年にサッカーマガジン編集部入り。日韓W杯時の日本代表担当で、2004年にワールドサッカーマガジン編集長、08年から週刊サッカーマガジン編集長となる。13年にフリーとなり、以来、メディアを問わずサッカージャナリストとして活躍中。