不定期連載『ボールと生きる。』では、一人のフットボーラーの歩みを掘り下げる。今回は昨季限りで引退した『太田吉彰』の後編。ジュビロ磐田を退団し、海外に挑戦した経験について綴る。味わった孤独と挫折が太田を選手として、人として大きく成長させた。

J1で磐田と仙台の優勝争いが見たい

2020年2月23日、磐田のヤマハスタジアムで太田の引退セレモニーが行なわれた(写真◎J.LEAGUE)

 とくにあてがあり、日本に戻ってきたわけではない。一からのクラブ探しである。まず売り込んだのは古巣の磐田。

「すぐに断られました。冷静に考えれば、当然ですよね。自分のわがままで海外に挑戦して、帰って来たから取ってくださいって、そんな都合のいい話はない。僕がフロントでも、同じ対応をしたでしょう。当時の僕はイケイケだったこともあり、取らなかったことをあとで後悔させてやるぞ、と思っていました。仙台入りが決まったときも、見返してやるぞって。でも、東日本大震災を経験し、磐田への屈折した思いもすべて消えて、感謝の気持ちを持つようになりました」

 無鉄砲な海外挑戦が人生の転機となったのだ。あらためて、妻にも感謝している。結婚して1週間後に磐田を退団し、単身で海外へ。

「チームが決まったら呼ぶわ」と威勢のいい言葉を残して旅立ったものの、約5カ月間も無給のまま。それどころか、移動費、宿泊費などの諸経費で数百万の出費である。それでも帰国すると「おかえり」と温かく迎えてくれた。

「あのとき、嫁はどう思っていたのか。いまだに怖くて聞けませんよ」

 引退したいまだからこそ胸を張る。

「海外の経験は、いまの仕事でも生きてくると思います。今後、トップアスリートを支援していく上で、いろいろと伝えることができます。夢を追う大学生たちにも話せることはあると思います。ヨーロッパでこんな失敗をしている元Jリーガーは、いないんじゃないですか」

 挫折してもへこたれず、18年に及ぶプロサッカー人生をまっとうした。A代表招集経験はあるものの、キャップ数はゼロ。それでも、J1・J2で通算349試合に出場した。

「僕のような実績でも、36歳まで現役でできたのは誇りです。どん底に何度落とされても這い上がってきましたから。セカンドキャリアでも失敗を恐れず、果敢にチャレンジしていきます」

 現在はアスリートの支援事業に携わりながら、ジュビロ磐田のアドバイザーを務めるが、ベガルタ仙台もいまだに心のクラブとして胸に刻まれている。

「ジュビロに昇格してもらい、J1の舞台でベガルタと優勝争いをするところを早く見たい。そうなってくれると、本当にうれしいですね」

 後悔なくスパイクを脱いだいま、最も楽しみにしていることである。

現在は自身も現役時代に愛用したマウスガード「Neutral」の普及活動に取り組んでいる(写真◎山口高明)

≫≫前編◎「震災後に知ったサッカーの力」

≫≫中編◎「ジュビロで終われて僕は幸せ」

Profile◎おおた・よしあき/1983年6月11日生まれ、静岡県出身。ジュビロ磐田のU-15、U-18を経て、2002年にトップチーム昇格。05年から主力として活躍し、07年には日本代表に初めて招集された。09年7月に契約満了で磐田を退団し、ヨーロッパで半年間テストを受けるが、契約に至らず帰国。10年からベガルタ仙台に加入し、14年までプレーした。15年に当時J2の磐田に復帰し、J1復帰に大きく貢献した。その後も古巣に在籍し、19年限りで現役を退いた。J1通算310試合36得点、J2通算39試合4得点の記録を残した。176cm、72kg