不定期連載『ボールと生きる。』では、一人のフットボーラーの歩みを掘り下げる。今回は昨季限りで18年の現役生活に終止符を打った太田吉彰の中編。ベガルタ仙台から古巣ジュビロ磐田への復帰、憧れの先輩との日々、そして引退の決意について綴る。

仙台サポのコールに感動

15年に磐田に戻り、J2リーグで39試合に出場。J1昇格に貢献した(写真◎J.LEAGUE)

 6月のヤマハスタジアムで完勝した後、仙台のサポーターが陣取るエリアに恐る恐るあいさつに出向くと、予想もしない温かい拍手が注がれた。最終節の情景も忘れることはできない。仙台の敗戦でどんよりとするユアテックスタジアムのピッチをゆっくり歩きながら頭を下げて回ったときだ。会場には万雷の拍手が巻き起こり、「ヨシ」コールが鳴り響いた。

「あんなにうれしいことはないですよ。応援しているクラブが負けた後なのに、相手チームの僕の名前をコールしてくれるなんて、鳥肌が立つほど感動しました」

 まだまだピッチの上を駆け抜けるつもりだったが、2017年以降の3シーズンはほとんど出場機会はなし。練習で手を抜くことはなかったものの、2019年限りで契約満了が告げられる。そこで潔く引退を決めた。心残りは19年途中に退任した名波監督のために存分に働けず、最後はJ2降格を招いてしまったこと。

「最後は何の力にもなれなかったです。名波さんに言わせれば、そんな実力ある選手じゃないんだから、『調子に乗るな』と言われて終わりですけど(笑)」

 それでも、ジュビロでスパイクを脱ぐことを決めていた男に迷いはなかった。現役生活に未練はない。

「地元に住む両親、友人、知り合い、ずっと応援してくれた人たちに囲まれて、引退できるなんて最高ですよ。この名門の7番と9番を両方付けたのは、僕だけですから。これは一つ自慢できることかな。ジュビロで始まり、ジュビロで終われて、僕は幸せ。小学生の頃からお世話になったクラブです。本当に感謝しています」

 しみじみと振り返る言葉には実感がこもる。11歳のときにジュビロのスクールに通い始め、中学校からはジュニアユース(U-15)に所属。そして、ユース(U-18)で技を磨き、2002年には念願のプロ入り。しかし、高卒の新人がすんなり試合に出場できるほど、現実は甘くなかった。

 当時は名波、服部、藤田俊哉らを擁するジュビロの黄金時代。生え抜きにも容赦はなく、練習もトップチームとは別。5、6人のサテライト(Bチーム相当)組はヤマハスタジアム近くの安久路公園多目的広場で、フィジカルを中心としたメニューで徹底的に鍛え直された。

「毎日が必死でした。このままだったらどうしようなんて不安を覚える暇もないくらいです。全力でトレーニングに打ち込んでいました。絶対に俺も有名になってやるんだ、とギラギラしていた」

 走力ではトップチームの面々にも見劣りしなかった。ある先輩からは「やる競技を間違えたんじゃないのか」と冗談で揶揄されたりもしたが、ブレることはなかった。

「僕の持ち味は足。スピードと体力には自信があったので、そこだけは負けないように走り続けていました」