連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは1990—1991年にチャンピオンズカップを制したバルカンの赤い星、東欧史上最強のタレント集団レッドスター・ベオグラードだ。

最強伝説の始まり

クロアチアが生んだ最高傑作とも言われるプロシネツキ(写真◎Getty Images)

 プロジェクトの黒幕ジャイッチの目論見どおり、若く才能豊かなタレントたちは、めきめきと頭角を現していく。そのなかでもストイコビッチ、サビチェビッチ、プロシネツキは別格だった。この3人に共通する偉才は圧倒的なキープ力だ。

 ひとたびボールを足元に収めてしまえば、まず取られる心配がない。四方から寄せ手に囲まれてもやすやすとかいくぐっていく。

 しかも、ストイコビッチとサビチェビッチはたった独りでボールを運び、フィニッシュに持ち込む力があった。伝説のジャイッチと同様、1対1ではほぼ止めようがない存在だったわけだ。

 この黄金ペアのハイライトが、5カ年計画の2年目に最強ミラン(イタリア)と互角の攻防を展開したチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)2回戦。ストイコビッチとサビチェビッチが圧巻のキープ力でミランの面々を手玉に取り、敗退寸前まで追い詰めた。

 当時のミランは、空前のプレス戦法で対戦相手を次々と「圧殺」してきたが、レッドスター戦だけは勝手が違った。肝心のプレスがことごとく空転してからだ。まず第1戦はストイコビッチの得点で1-1、第2戦はサビチェビッチが先制して1-0、ベスト8は目前だった。だが、ドイツ人のパウリ主審が濃霧を理由に試合を打ち切ってしまう。

 そして、翌日に再試合が行なわれ、1-1のまま延長でも決着せず、PK戦の末にミランが辛くも勝ち上がった。実はこの試合でもストイコビッチが同点ゴールを決めている。あの偉大なるバレージもライカールトも、ただただ翻弄されるばかりだった。

「卓越した技術の前では、プレスも無力だ」

 いかにも故ヨハン・クライフの言葉どおり。惜しくも敗れはしたが、悲願のヨーロッパ制覇が決して夢ではないことを強烈に印象づけることになった。

「6番目の星」へ

黄金トリオの中では最後までチームに在籍していたサビチェビッチ。しかしジェニオと呼ばれた男も93年に移籍することになった(写真◎サッカーマガジン)

 最強ミランを追い詰めた伝説の一戦から2年後の1990年夏、ジャイッチは悩ましい問題に直面する。主力の流出だ。

 しかも、ターゲットにされたのが、あのストイコビッチだった。野心家のオーナーが金に糸目をつけない強豪マルセイユ(フランス)に絶対エースを引き抜かれてしまう。チームの弱体化が懸念されたのも当然だろう。

 だが、若いタレント群が秘めるポテンシャルの高さは周囲の想像をはるかに超えていた。2年ぶりに挑んだチャンピオンズカップで破竹の快進撃を演じる。一本立ちだしたプロシネツキが中盤を仕切り、その前方で新しい「10番」となったサビチェビッチが躍動。ボールを持つたびに決定的な仕事をやってのけた。

 組分けにも恵まれ、楽々と4強に進出。準決勝でもドイツの名門バイエルンを仕留め、1991年5月29日に開催されるファイナルの舞台へ駒を進めた。

 何の因果か、決勝の相手はストイコビッチのいるマルセイユだった。そこで、レッドスターのペトロビッチ監督は慎重策に出る。従来の中盤をダイヤモンド型に組んだ4-4-2から5-3-2システムへの変更を決断。手厚く守り、カウンターから勝機を探るプランで臨んだ。

 結果、互いにスコアが動かず、0-0のまま、延長戦へ。ここでストイコビッチがピッチに登場する。レッドスターの面々は明らかに動揺していたが、どうにか持ちこたえ、PK戦の末に初のビッグタイトルを手中に収めた。

「もしもストイコビッチが先発していたら、僕らは負けていたかもしれない……」

 のちにサビチェビッチは、そう告白したという。誰よりも恐れていた「星人」のベンチスタートが幸運をもたらした格好か。

 東欧のクラブがヨーロッパ王者となるのは、1986年のステアウア・ブカレスト(ルーマニア)に続いて二度目。そのステアウアでリベロを担い、優勝に貢献していたベロデディチの経験値の高さも、敵の強力な攻めを水際で食い止める大きな要因だった。

 プロジェクト開始から4年目の夏、ついにクラブの大いなる野望が実り、優勝メンバーは「6番目の星」として、クラブの歴史にその名を刻むことになった。