連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは1990—1991年にチャンピオンズカップを制したバルカンの赤い星、東欧史上最強のタレント集団レッドスター・ベオグラードだ。

上写真=90-91年シーズン、レッドスターは決勝でPK戦の末にマルセイユを破り、チャンピオンズカップ優勝を果たした(写真◎Getty Images)

文◎北條 聡 写真◎サッカーマガジン、Getty Images

「第3星人」の5カ年計画

 サッカーは絵を描く作業に似ている。言わば、創造力のスポーツだ――。

 クラブの要職(テクニカルディレクター=TD)に就く英雄は、そう言った。ドラガン・ジャイッチ。ユーゴスラビア史上最高の名手と言われた人である。いかなる戦術も個人の創造力を超えることはない。それが、同国随一の名門レッドスターに根付いた哲学と言ってもいい。

 名将の手腕でも、斬新な戦術でもない。クラブの命運は、ひとえに当代のタレント力にかかっていた。そのピークが、1991年のことだった。悲願のヨーロッパ制覇はもとより、世界最強クラブへと上り詰める。それは、フロント陣の手がけた野心的プロジェクトの集大成でもあった。

 ツルベナ・ズベズダ。これが、本国で呼ばれているクラブの正式名称だ。レッドスター(赤い星)とは、その英語読みである。クラブの創設は1945年3月4日。ナチス・ドイツの支配から解放された翌年、首都ベオグラードに誕生した。

 1951年に初のリーグ制覇を果たして以降、国内最強クラブとして君臨。その間、次々とスターを輩出してきた。とくに大きな功績を残した選手には、クラブから「星人」の称号が与えられている。1人目はライコ・ミティッチ、2人目はドラゴスラフ・シェクララッツだ。

 そして、3人目が1960年代後半から1970年前半にかけて活躍したジャイッチだった。当代きっての左ウイングであり、左足で球を扱う技術はマジックさながら。その最盛期には、誰も止められなかった。1986年、そのジャイッチが例のTDとして復帰。これを機にクラブの一大プロジェクトが始まることになる。

 狙いはヨーロッパ制覇だ。そこで、フロント陣は「5カ年計画」を立案。1987年夏、本格的にスタートを切った。いかに人的資源を確保するか。計画の柱は至ってシンプルなものだ。もっとも、そこでジャイッチが補強のターゲットにしたのは、誰もが認める当代の実力者ではなかった。

もう一人のドラゴン

EURO1984では18歳ながら輝く才能を示したストイコビッチ(右)。のちにレッドスターで「星人」となった(写真はベルギー戦/Getty Images)

 ジャイッチが真っ先に手をつけたのは、21歳の若者だった。あのドラガン・ストイコビッチだ。

 セルビア第二の都市ニシュ近郊の生まれ。ベオグラード育ちではない。当時は、地元ラドニツキ・ニシュの選手だった。初代表は、18歳だ。1984年にフランスで開催されたEURO(ヨーロッパ選手権)に参加し、フランス戦で大会最年少ゴールを記録。次代を担うスター候補生の中でも別格の存在だった。

 そこでジャイッチはイの一番に引き抜きを画策。ニシュに対して巨額の移籍金+レギュラー5人という破格の条件を提示し、異例のトレードを承諾させている。

 かくして、クラブに「もう一人のドラゴン」(ドラガンはドラゴンの意)が加わることになった。この逸材はクラブ史上最年少でキャプテンに就任。ジャイッチの見立てどおり、クラブの新しいアイコンとなっていく。

 ちなみに、5カ年計画の始まりは、このストイコビッチが加入して2年目のことだ。ここから一大プロジェクトが加速し、ストイコビッチよりもさらに若いタレント群を次々と獲得する。

 1987年の夏、クロアチアの強豪ディナモ・ザグレブから引き抜いたのが、18歳のプロシネツキだ。同年秋に開催されたワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)でユーゴスラビアを優勝へと導き、MVPを受賞。それくらいの大器だった。

 翌年夏にはモンテネグロのブドゥチノスト・チトーグラード(現ブドゥチノスト・ポトゴリツァ)から弱冠20歳のサビチェビッチを獲得。ジャイッチは、その偉才をすぐに見抜いたという。

 またマケドニアのバルダール・スコピエから22歳のパンチェフも加えている。のちに「コブラ」の異名を取る点取り屋だ。

 さらに3年目の1989年夏にはルーマニアから亡命したリベロのベロデディチと、クラブの下部組織で育ち、兵役を終えた20歳の万能MFユーゴビッチを迎え入れる。こうして前線から最後列に至る、チームの骨格が固まることになった。