上写真=ナシオナル・メデジンのサポーターに、伝説のキャプテンと称されるアレクシス・ガルシア(写真◎サッカーマガジン)
文◎北條 聡 写真◎サッカーマガジン
「ナシオナル化」の賭け
いったい、自分たちの強みとは何なのか。やはり、そこがすべての出発点らしい。
「個人の自由を尊重し、それぞれの特徴を生かし切る」
そんな青年監督のコンセプトが祖国コロンビアのクラブ史を塗り替えることになった。1989年のことである。
攻守を問わず、味方同士が接近し、局地的に数的優位をつくりながら、敵を翻弄していく。彼らはそんなユニークな戦法を引っ提げて、世界の表舞台に現れた。
それが、空前絶後の『スモールフットボール』を展開するナシオナル・メデジンだった。
南米には「ナシオナル」と名のつくクラブが少なくない。そこには、多かれ少なかれ、自国の選手でチームを構成しようとする思惑が込められているという。このメデジンも、そうだった。だが、1948年のプロ化以降、競技力の点で国際水準に満たないコロンビアでは、他国の指導者や選手たちの影響力が強かった。
1980年代前半までのメデジンも例外ではない。三度のリーグ優勝は、いずれも外国人監督の下で成し遂げられたものだ。だが、外国人を抱えておくには相応の資金力が必要になる。成績が振るわず、収益が落ち込めば、財政面で逼迫しかねない。
1980年代半ばのメデジンでは給与の支払いが滞り、クラブを離れる選手が続出する。ほとんど崩壊寸前の状態にあった。そこへ1人の救世主が現れる。フランシスコ・マツラナだ。当時37歳の青年監督である。
現役引退後、大学で教鞭を取っていた変り種。4年後、指導者へ転身し、クリスタル・カルダスという小クラブの監督となった。そこで魅力的な攻撃サッカーを披露。その手腕に目をつけたメデジンからオファーが舞い込んでくる。1987年のことだ。
こうしてメデジンの新監督となったマツラナは、次のような方針を掲げてクラブの再建に乗り出すことになる。
「外国人ではなく、我が国の選手たちを信じよう」
まさにメデジンの「ナシオナル化」である。それは大きな賭けのように思われたが、若き指導者には勝算があった。個人の自由を尊重すれば、のびのびと戦える――そう信じていたからだ。こうして魅惑のドラマが始まることになる。
智将マツラナの改革
いかに自国の選手だけで強力なチームをつくるか。マツラナはこれと見込んだ有力選手を他クラブから集める一方、メデジンの育成組織からも有望株を次々とトップへ引き上げていく。まず、マツラナが率いたクリスタル・カルダスの司令塔ガルシアを獲得。多彩なトリックに通じた国内きっての業師を、新生メデジンのキャプテンに据えた。
また、ボランチの俊英アルバレスとセンターバックの逸材ペレアを補強。育成組織からは典雅流麗なセンターバックのエスコバルや大胆不敵な守護神イギータを迷わず昇格させている。ガルシア以外は、いずれも20代前半の若者ばかりだ。実績よりも潜在能力の高さを優先し、各々の持つキャラ(個性)を引き出すことに力を尽くした。
メデジンの育成組織に好素材がそろっていたのも指揮官にとっては幸運だった。1987年の南米ユース選手権で得点王を獲得し、祖国に初優勝をもたらしたトレジェスも、その一人だ。人材発掘に余念のないマツラナは、クラブの外にも目を向けた。地方の小クラブでくすぶるウスリアガの引き抜きは、その好例だろう。この長身FWがやがて躍進の一翼を担うのだから、選手の才能を見抜く力は伊達ではない。
ちなみに、マツラナは同時期にコロンビア代表の監督を兼任するめずらしい立場にあった。そこでメデジン組を数多く招集。チーム戦術もメデジンのそれを、そっくり転用している。
監督就任3年目の1989年には、イギータを含むディフェンス陣の顔ぶれが、代表とイコールになる。これにアルバレスを加えた6人の「メデジン・ユニット」が代表の中核を成していた。
なお、マツラナ率いる代表チームは1987年のコパ・アメリカで大躍進。あのマラドーナを擁するホスト国のアルゼンチンを破って堂々3位に食い込み、南米中をあっと言わせている。代表のキーパーソンは鬼才バルデラマだが、メデジンではガルシアが同じ「10番」の役割を担っている。それだけの技術とアイディアを持つタレントだったわけだ。
いや、それ以前にも優秀な人材は少なくなかったという。だが、国際舞台でなかなか壁を破れずにいた。マツラナによれば「精神面で未熟だったからだ」。個人技の高さは申し分ない。あとは、意識をどう変えていくか。勝つことで自信が深まる――そう信じる指揮官の手腕が、メデジンを、コロンビアを、時代の強者へ押し上げることになった。