1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第13回は、日本サッカー史上でも指折りの技巧派、宮本輝紀について綴る。

環境と指導者が育んだ才能

日本代表の中でも宮本の技術の高さは誰もが認めるところだった。写真右が宮本、左は釜本(写真◎サッカーマガジン)

 高校に入学してからサッカーを始めるような選手が大半だった時代に、ボール扱いに長けたテクニシャンが現れたこと自体がまれなことだ。そこには、やはり納得させられるキャリアがある。

 広島市内で生まれた宮本は、千田小学校4年生のとき、自身も現役選手だった三保久米人先生に出会い、早くもサッカーを始める。国泰寺中学でも県協会に通じる平松征司先生がサッカー部の顧問で、練習はもちろん、地元で開催された当時の国内トップレベルの試合を観戦した。

 進学した山陽高校の監督は元日本代表GK渡部英麿であり、恵まれた才能を磨き上げる環境と人にめぐり合っている。戦後間もない生まれながら、小学生のころから経験のある指導者の下でボールを足で扱う日常があったのだ。

 宮本よりさらに古い時代、1936年オリンピックで『ベルリンの奇跡』を成し遂げた日本代表のエース、川本泰三も、当時としては群を抜くテクニックを備えていた。本人と親交のあった、日本で最もキャリアのあるサッカージャーナリスト・賀川浩氏によれば「技術は今なら小野伸二レベル」という。

 その技術も、小学生時代からゴムボールを遊びで蹴りながら習得した。小さいボールで行なうリフティングがいかに難しいか、ボールを蹴ったことがある者なら分かるだろうが、当人は「200回は続けた」と語っている。これは特異な例かもしれない。つまりは子どものころから才能を磨く環境、工夫がなければテクニシャンは育たないということ。

 90年代以降になると小学生時代からボールを蹴ることなど当たり前で、かつての宮本輝紀を彷彿させる選手が生まれている。中村俊輔、遠藤保仁、中村憲剛らにその姿が重なり、日本が生み出すテクニシャンの系譜がつながるだろう。ただ、ここ最近、そういったタイプの選手が途絶え気味であることは、少し気にかかるーー。

著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める