1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第12回は、2冠を達成した「走る日立」について綴る。

上写真=72年の日本リーグ・新日鉄戦でPKを決める日立製作所の松永章。この年の得点王に輝いた(写真◎サッカーマガジン)

文◎国吉好弘

チームを変えた高橋英辰監督

 1972年の日本リーグ(JSL)で初優勝を果たした日立製作所のことを語るとき、必ず登場するキャッチフレーズが「走る日立」だ。当時テレビ放映の事前取材に訪れたNHKの鈴木文弥アナウンサーが、練習を見て感じた特徴を実際に中継でも使ったことで広まった。

 チームの指揮を執った高橋英辰監督は、まさにそういったチームづくりをしており、当時学生だった私も観客の一人として実際にスタンドから見て、またテレビで放映された試合を眺めても、相手チームより走っている印象は確かにあった。

 高橋監督はJSLが始まる以前にも日立を率いて、日本のトップレベルに引き上げた人だが、日本代表監督を務めるなど日本協会の仕事のために一度は退いていた。しかしJSLが創設されると日立は、最初のシーズンとなった1965年は4位だったが(全8チーム)、66年は5位、67年は6位で、68年には7位となり、社会人の上位チームと入れ替え戦を戦わなければならなくなる。

 まさにじり貧状態のチームを立て直すため、69年のシーズン途中に監督として復帰を要請された。

 その手腕は確かで、会社と交渉して練習時間を大幅に増やし、グラウンドなどの設備を整え、選手補強も行なった。69年こそ途中からの采配だったこともあり、再び7位にとどまったが、翌70年には一気に3位に引き上げる。71年は4位と一つ後退したものの、72年には連覇を狙った本命のヤンマーに競り勝ち、最終節で優勝を決めたのだった。

 さらにこの年、オープン化した天皇杯(前年まではJSLと全国大学選手権の上位4チームずつ、8チームによる争いだった)でも、73年元日の決勝でヤンマーを2-1で下し、2冠を達成している。