連載『サッカー世界遺産』では後世に残すべきチームや人を取り上げる。今回、世界遺産登録するのは、2010年のワールドカップで異端のサッカーを披露し、世界のファンを驚かせたチリ代表だ。

上写真=まだ若手だったアレクシス・サンチェスは大会で活躍し、注目を集めることになった(写真◎Getty Images)

文◎北條 聡 写真◎Getty Images

48年間の空白

 今日の成功が、明日の常識とは限らない――。現代人は、そんな未曾有の時代を生きている。

 人、金、モノ(情報)が高速、かつ大量移動するグローバル時代ではマーケットにおける成功例が短期間で共有される。トレンドの「賞味期間」が短いわけだ。

 それは、サッカー界も同じだろう。流行に乗り遅れれば、命取りになりかねない。成功例の後追い(コピー)が続出する。
 だが、時代の先取りは難しい。マーケットの勝者は常に開拓者だからだ。そこで「我が道」を進んだ国がある。それが、南米の小国チリだった。
                   
 2010年、地上最大のイベントが初めてアフリカ大陸で開催されることになった。南アフリカ・ワールドカップだ。
 FIFA(国際サッカー連盟)の拡大路線が、ついにアフリカで祭典を開くに至った。それは同時に、南半球で開催される「冬のワールドカップ」でもあった。

 大会史上、冬のワールドカップはわずか四度しかない。1930年、1950年、1978年の各大会は、ウルグアイ、ブラジル、アルゼンチンという南米の大国で開催された。

 残る1回は、同じ南米のチリで開かれている。1962年のことだ。この大会で小国チリは「地の利」を生かし、3位に食い込んだが、それを最後に「冬の時代」へ突入していくことになる。

 1966年、1974年、1982年に本大会へ駒を進めたが、1勝もできずにグループステージ敗退。イバン・サモラノとマルセロ・サラスの『Za-Sa』コンビを擁した1998年フランス大会で、やっとグループステージを抜けたが、その実は3戦3分け。結局、決勝トーナメント1回戦でブラジルに屈し、地元開催以降、本大会で未勝利のまま、20世紀を終えたわけだ。

 その1998年以来、3大会ぶりに駒を進めた南ア大会は、暗い歴史に終止符を打つ格好の機会。チリの国民は、そう信じて疑わなかった。ブラジルに次ぐ2位という好成績で、シビアな南米予選を突破していたからだ。

 いったい、チリの何が変わったのか。快進撃の仕掛人は、エル・ロコ(奇人)の異名を取る、戦術マニアだった。

ビエルサという奇人

チリ代表を大きく変えた指揮官ビエルサ(写真◎Getty Images)

 転機は2007年8月である。ひとりの指導者が、チリ代表の新監督に就任したからだ。

 マルセロ・ビエルサである。

 3年前まで祖国アルゼンチンの代表監督を務めていた。しかし、2004年のアテネ五輪で金メダルへ導いた以外、これという実績を残してはいない。

 南米では各々の個性(キャラ)を尊重して、オーダーメイドの集団を作る指導者が少なくないが、ビエルサは違った。理想の像が、先にある。

 重んじるのは規律と組織。そうした哲学は、個性の強いアルゼンチンのタレント群と相性が悪かった。ビエルサ自身も、結果ばかりを求められる祖国の環境に嫌気がさしていたという。異端の指導者にとって、小国からの誘いは渡りに船だった。

 アルゼンチンの指導者は大きく2つのタイプ、2人の名将の系譜に分類される。1つはビラルド派で、もう1つがメノッティ派だ。前者は防御、後者は攻撃に軸足を据える。言わば保守と革新、左派と右派の関係と言ってもいい。

 だが、ビエルサは、そのどちらでもなかった。

 思想・哲学の源流は、オランダのフットボールにある。とりわけ1990年代前半にヨーロッパを席巻したアヤックスのスタイルに共鳴していた。智将ルイス・ファンハールの手がけたコレクティブなフットボールだ。

 南米に深く根を下ろした攻守の分業制から兼業制へ。ビエルサの説く「徹底攻撃」は思想的に革新(メノッティ派)とも言えるが、必ずしも攻撃一辺倒ではない。

 全員で攻め、全員で守る。

 言わば、トータルフットボールだ。この理想だが空論――と言われかねないビエルサイズムは、しかし、チリ代表の隅々まで浸透することになる。

 まだ南米のどの国も実践していない理想郷へ。南ア大会は、チリ式トータルフットボールを演じる絶好の舞台だった。