ドイス・ボランチ
パレイラとザガロの二頭体制によるセレソンは、2人のボランチによって特徴づけられる。
いわゆる『ドイス・ボランチ』だ。プリメイロ(第1)ボランチが5番のマウロ・シウバであり、セグンド(第2)ボランチが8番のドゥンガだった。
実のところ、セレソンの伝統は5番と8番をミッドフィールドに据えた「4-2-4」システムにある。初優勝を果たした1958年大会から1970年大会まで、ベースは一貫していた。
1958年大会はジト(5番)とジジ(8番)が組み、1970年大会ではクロドアウド(5番)とジェルソン(8番)が並び立っている。彼らは4人のバックスと4人のアタッカーを密接にリンクさせるキーパーソンだった。
しかし、1974年大会以降、システムは二転三転。4-3-3を皮切りに、変則の4-4-2、4-3-1-2、そして前回大会で初めて3バック(3-5-2)を採用している。
ミッドフィールドの中央に再び2人のMFを据えたのは1991年のコパ・アメリカからだ。この大会でパウロ・ロベルト・ファルカン監督に見いだされたボランチが、マウロ・シウバだった。
もっとも、過去のセレソンとの比較において特異な存在は相方のドゥンガの方か。歴代の「8番」は、厳密に言えばボランチではない。俗に「メイアドール」と呼ばれる司令塔の役回りだ。
ドゥンガは同じ「8番」でも、その方面の才覚では先代のジジやジェルソンに遠く及ばない。その実像は「5番以上8番未満」といったところ。それでも、いや、だからこそ、ボランチを並べることに妙味があった。
波状攻撃がしばしば過剰攻撃へ暗転しやすい歴代セレソンの弱みを克服し、いかに攻守のバランスを維持するか。知恵を絞った結果が、ドゥンガとマウロ・シウバのカップリングだったわけだ。
4バック+2ボランチ。伝統のシステムを再構築したセレソンはついに宿願のバランスを手に入れる。その戦いぶりは実に手堅く、したたかで、隙がなかった。
ラテラウ+可変式システム
6月20日の初陣から、セレソンの安定感は際立った。舞台はアメリカ西部のサンフランシスコ。そこでロシアを2-0で下すと、一気に「西のワールドカップ」を駆け抜けていく。
カメルーンとの第2戦も3-0とモノにして、16強へ一番乗り。スウェーデンとの第3戦をドローでやり過ごす余裕があった。
決勝トーナメントの1回戦は、アメリカの独立記念日である7月4日。そこでホスト国と対戦するめぐり合わせは、ブラジルの勝運を試す格好の機会となった。
スコアが動かぬまま、左サイドバックのレオナルドがヒジ打ちで一発退場となる窮地に立たされながらも、慌てず、騒がず、ベベットの決勝点で8強に駒を進める。4試合で実に3回目の無失点。どうにも脇の甘い、かつてのセレソンではなかった。
さらに準々決勝で強豪オランダに3-2と競り勝ち、準決勝ではスウェーデンを1-0で返り討ちにする。この2つのゲームで強い印象を与えたのが、攻撃の両輪となる「ラテラウ」だった。
ラテラウとは、ポルトガル語でサイドバックの意味だ。ブラジルの伝統的な強みが、このラテラウにあると言ってもいい。
歴代のセレソンは、世界に類のないラテラウの宝庫だ。1958年大会のジャウマとニウトンの両サントス、1970年大会のカルロス・アウベルト、1982年大会のレアンドロとジュニオール、そして1986年大会のブランコとジョジマール……。いずれも、凡庸なウイングをはるかにしのぐ破格の攻撃力を備えていた。
アメリカ大会も例外ではない。準々決勝で粘るオランダにトドメを刺したのは、出場停止のレオナルドに代わって先発した老雄ブランコだった。
約25メートルの直接FK。悪魔のような軌道を描いた球がゴールネットに吸い込まれた。キックの名手がズラリというのも、歴代のラテラウに共通する特徴だ。
ライトバックのジョルジーニョは、当代屈指のクロサーだった。準決勝では2人の大男に挟まれたロマーリオの頭にピンポイントのクロスを送り、値千金の決勝点をアシストしている。
興味深いのはラテラウの攻撃力を十全に引き出す仕組みが整っていたことだ。彼らをアタッキングゾーンへ押し上げる可変式システムが、それである。
攻撃の局面でボランチの1人が最後尾に下がり、2人のセンターバックと3バックを構成。ビルドアップの要になると同時に、ラテラウの帰陣が間に合わないケースの「保険」にもなった。
ラテラウの攻撃力を最大化するボランチの上下動は、1986年大会のエウゾがすでに実践している。その動きを巧妙にシステムの一部に落とし込んだのが、今大会のセレソンだったわけだ。
4-4-2から3-5-2へ。モダンサッカーへの扉を開く可変式システムもまた「秩序と進歩」のセレソンを象徴していた。