1968年に開催されたメキシコ五輪で日本は銅メダルを獲得した。以来、半世紀以上、その成績を超えることができずにいる。日本サッカー史に刻まれた偉業を成し遂げた銅メダリストによる『てい談』をお届けしたい。メキシコ五輪の銅メダル獲得から50周年の節目の年(2018年)に収録した貴重な記録だ。登場するのは、釜本邦茂さん、杉山隆一さん、松本育夫さんの3人。日本サッカー界のレジェンドは、当時から森保一監督に大きな期待を寄せ、東京五輪でのメダル獲得を願っていた。

上写真=メキシコ五輪から50年の節目の年に行なった特別てい談。左から杉山隆一さん、釜本邦茂さん、松本育夫さん(写真◎近藤俊哉)

取材◎国吉好弘 写真◎近藤俊哉

3人の出会い「泥の中で運動靴」

――メキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得から50年が経ちました。今日は当時のチームのFW3人に集まっていただきました。まず3人の出会いから聞かせてください。

松本 僕が高等学校(宇都宮工業)2年のときに富山で国体があったんです。その準決勝でうちが山陽(広島)とあたって。宮本輝紀、上久雄(ともに後に八幡製鉄→新日鉄)のいたチームですね。それで隣のグラウンドで清水東が試合をやっていたんですよ。雨が降ったあとの泥だらけのグラウンドでした。そこで杉山が運動靴でプレーしていたんですよ! 赤土の粘土質のグラウンドです。それなのに転ばず、滑らずにプレーしているわけ。スピードがあるのにバランスがすごくいい。「いやー、すげえヤツがいるな」と思いましたよ。

杉山 あのとき、前半はスパイクで、一応、皮のポイントのものを履いていました。でも重くなっちゃって、後半は運動靴にしたんですよ。

――わざわざ運動靴に?

杉山 そうそう。あのときに岡野俊一郎さんがユース代表に呼ぶ選手をチェックしていて、そんなグラウンドなのに滑りもしないで、スピードもあったから目についたようです。

釜本 その話は僕も聞きましたよ。まだ中学生のときですけど、清水東に足の速い人がいて、泥の中でも平気でドリブルしていくって(笑)。それが杉山さんでした。

松本 僕らは山陽に負けて決勝で杉山と対戦することはなかったけどね。山陽は輝紀さんがFK、CKと何でも一人でやって目立っていて、清水東には杉山がいた。その後、ユース代表を選ぶ合宿で初めて会いましたね。ただ、2人は選ばれて、結局僕はこの年は代表から落とされたんだけど。

杉山 あのときの輝さんのテクニックはピカイチだったね。

松本 すごいなんてもんじゃない。

杉山 今はうまい選手もたくさんいるけど、あの時代は輝さんのテクニックがずば抜けていた。

松本 今なら数億円を取れる選手ですよ。日本で最高給取りになっていたはずだね。ちょっと時代が早すぎた。

釜本 僕は大学(早稲田)へ入って、代表の合宿へ呼ばれたときに初めて“現実の”杉山さんに会いました。とにかく足が速くて、こんな人と一緒にサッカーするのか、と思いましたよ。それと何より格好良かった。代表のユニフォーム着て、颯爽とプレーしていましたから。

杉山 それは代表に入ってレギュラーでプレーすると格好よく見えるんですよ。年下から見れば。

――日本のトップの選手ということですから。

杉山 僕らはユースでは入れ違いで会っていないよね。釜本を見たときには久々の、というか、センターフォワードらしい風格というものを感じましたよ。

――松本さんは、釜本さんと早稲田大学時代に出会ったのですか。

松本 僕が4年のときに1年生で入ってきたのが釜本ですよ。当時の早稲田には入部してきた1年生に4年生が1人ずつ担当するという習わしがありました。ようは教育係ですね。僕が釜本担当でね、練習が終わると1年生をしごくんですよ。それで2カ月、全体練習が終わったあとにシュート練習をさせていた。きっと、いやな思いをしていたでしょうね(苦笑)

釜本 えっ、そうでしたか? 全然覚えてないな(笑)。ユースの遠征で早稲田の1年生の中でも一番遅れて練習に出たので、はじめは4年生も誰が誰だかよく分かりませんでした。でも、なんだか訛りのある話し方で「俺が松本だ」って、言っていたのは覚えていますけど(笑)

――釜本さんは1年生のときからレギュラーでしたよね。

松本 レギュラーどころか、リーグの開幕戦で法政大に5―0で勝ったのですが、全得点を挙げたのが釜本ですから。僕ら4年生も、釜本に最敬礼ですよ。全部ヘディングシュートだった。よく覚えています。

釜本 ヘディングはそんなに得意じゃなかったけれど、「強い、強い」と新聞なんかでも書かれていたので、そんなに言われるなら練習すれば、本当にすごくなるな、と思って練習はしました(笑)


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