イビチャ・オシム氏は信念の人だった。モザイク国家と形容された旧ユーゴスラビア代表を率いたときも、当時無冠だったジェフユナイテッド市原を率いた時代も、そして日本代表の監督になってからもその姿勢、振る舞いは変わることはなかった。

上写真=90年W杯、コロンビア戦のベンチに座るイビチャ・オシム監督(写真◎サッカーマガジン)

文◎北條 聡

答えは与えられるものではない

 いつも常識や慣習を疑う人だった。

 先日、亡くなられたイビチャ・オシムさんの話である。来日のはるか前。7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家と言われた旧ユーゴスラビアの代表監督時代のことだ。

 特定の共和国に人選が大きく偏る悪しき慣習を断ち、文字どおりの最強軍をつくり上げた。その結果がワールドカップ8強。1990年のイタリア大会である。ただ、ある選手がこう言った。

「たとえ我々が優勝したところで、誰もオシムに『ブラボー』とは言わないだろう」

 常に背景の異なる人々の思いが複雑に絡み合うモザイク国家。いっさいの忖度なしに代表選手を招集するオシムさんのやり方を快く思わぬ人々が数多くいた。批判の矢面に立たされても、自らが正しいと信じる道を選んだ人だ。

 金がない。人材がいない。だから勝てない。

 オシムさんはそうした考え方にも疑念を持つ人だった。技術が足りない? ならば走力を使って補えばいい。創意工夫。まさに必要は発明の母である。事実、オシムさんが監督になるまで無冠だったジェフ市原(現千葉)の選手たちをとことん鍛え上げ、初のタイトルをもたらしている。

 常識を疑う目はその戦いぶりにも見て取れた。何しろ、市原で試みた守備戦術はすっかり廃れていたマンツーマンだった。当時、あんなやり方は古臭いと言う人もいた。ところが、どうだろう。あれから20年近く経った現在、前線からプレスを試みる際、マンツーマン気味に人を捕まえる手法はめずらしいものではなくなっている。

 もちろん、現在のマンツーマンはオシムさんのそれと同じものではない。ただ、人を捕まえるという根っこの部分は変わらない。重要なのは古いか新しいかではない。良いか悪いか、適不適か。見る者にそういうことを考えさせる人だった。

 そもそもモダンフットボールは「温故知新」によって成り立ったものだと言っていい。ウイングも4-3-3の布陣も一度は廃れたものだ。それを故ヨハン・クライフが復活させ、直系の弟子たる名将ペップ・グアルディオラが引き継ぎ、当世風にアレンジしたものが多くの指導者たちに影響を与え、今日に至っている。

 オシムさんも決して固定観念に縛られず、物事の実相を見抜く目を持っていた。例のイタリア・ワールドカップの初戦。西ドイツ(当時)を相手にオシムさんは博打に出る。自国のメディアがこぞって「使え!」と報じるタレントたちをまとめてピッチに送った。結果は1-4の惨敗。博打と書いたが、オシムさんからすれば計算づくの試みだった。あなた方の言うとおりにすれば、こうなる――と。こうして周囲の雑音をかき消し、残りの2試合を勝ち切ってベスト16に導いた。

 そんな人だからこそ、つい叶わぬ夢を見てしまう。病に倒れることなく、あのまま日本代表監督を続けていたら……。いったい、どんなチームに仕上がったのか、オシムさんの口グセでもあった失敗を恐れず、リスクを冒す勇者の集まりとなったのかどうか、想像もつかない。

 答えは誰かから教えられるものではない。自らの頭で考えよ――。オシムさんはことあるごとにそう話していた。ならば、残された者たちの考えるべきことは暗礁に乗り上げたオシムジャパンの「続き」でも「その後」でもない。僕らの、我々の日本サッカーとは、日本代表とは何か。それをあなた方自身が考えよ、と。

 つまらぬ常識や慣習にも縛られることなく。きっとオシムさんはそう願っているはずだ。


This article is a sponsored article by
''.