元日本代表MFの長谷川アーリアジャスールが、約半年間の無職期間をへてJ開幕から2ヵ月遅れでピッチに帰還した。5月15日でJリーグ発足30年。かつてのスターたちの歴史、記憶がよみがえるこの時に、華々しくはないが、残したい足跡がある。「サッカー界のダルビッシュ」と呼ばれた男が突然の解雇、無職を経験、それでももう一度プロの舞台を目指した半年間の軌跡。再起を促したのはチャント(応援歌)。Jリーグのサポーターが醸成したカルチャーが、消えかけそうになった34歳の「プロ魂」をピッチにつなぎとめたーー。

上写真=先の見えない時期も長谷川アーリアジャスールはトレーニングを続けていた(写真◎占部哲也)

文◎占部哲也(東京中日スポーツ)

辛かったのは1月。なんでキャンプにいないんだろうって

「長谷川アーリア ジャスール ジャスール ジャスール♪ 長谷川アーリア ジャスール ララララ~ラララ~♪」

 11年前に生まれた一度聞くとクセになるチャントが、J3ガイナーレ鳥取のホーム・Axis バードスタジアムで息を吹き返した。約半年間の「無職」を経験した34歳の鼓膜は振動し、心を強く叩いた。4月29日。奈良戦の後半24分に最も遅い加入となった“転校生”が交代出場。元日本代表MFの長谷川アーリアジャスールは、タッチラインを超え、固い決意と深い感謝と同じ圧力でプロのピッチを再び踏みしめた。

「ああ、オレはもう一度、これを聞きたかったのかって思ったね。大好きなチャント。自分でも自然とくちずさんでいた」

 昨年の10月25日。迷宮の入り口が待っていた。J2最終節から2日後に町田から予想外の戦力外通告を受けた。「目標のJ1昇格を果たせなかったし、年齢のこともある。大減俸は覚悟していたけど…えっ!まさか!!が本音」。昨季は38試合出場4得点。ベテランと言われる領域に入ったが、主力としてチームを引っ張り、数字も残した。ホームの試合では「アーリアシート」を設置して、子どもたちを招待するなどピッチ外でも活動した。だが、クラブは監督、GMを一新。選手も大幅に入れ替える大変革を敢行、元日本代表も“大リストラ”の渦に巻き込まれた。

 その後1ヵ月は練習に参加したが、チームが解散すると孤独な日々が待っていた。心の波の上下動は激しかった。「試合にも出ていたし、最初はオファー来るだろと思っていたけど…甘かった」。横浜F・マリノスの大先輩である中村俊輔を筆頭に、同世代、元チームメイト、対戦した選手たちの引退ニュースを目にする日々が続いた。一方、カタールW杯で躍進する日本代表に活力をもらい、「オレも」と自身を鼓舞した。しかし、年が明けても朗報は届かない。アーリアはまだ消えない痛みを含んで言った。

「無職の期間で一番辛かったのは1月かな。キャンプが始まった様子がSNSに自然と入ってくる。『なんでここにオレはいないだろう』って。いつもならいるはずの場所なのに…なんでなんだって」

 わずかでもいい。光を求めた。1月中旬。元チームメイトの田中裕介が執行役員を務める地域リーグのクラブ「SHIBUYA CITY」への練習参加を願い出た。世の中が新生活を始める春になっても、進路は未定のまま。3月末の東京・渋谷。代々木公園のサッカー場でボールを蹴っていた。記者は、桜の花びらがひらり、ひらりと舞い落ちる公園のベンチに腰を下ろした。186センチの長身は遠目からでもすぐに分かった。それよりも正確で丁寧なパス、キック、トラップが周囲と違って老眼が始まった目でもよく映えた。

 都心での練習を見ながら11年前の春をゆっくりと回想した。アーリアが横浜F・マリノスからFC東京へ移籍した2012年。「サッカー界のダルビッシュ」と言われた若者は覚醒した。開幕から公式戦4試合3得点。歩幅、スケールが違った。大きなスライドで対峙する敵を一気に置き去りにして「グイ~~~~~~ン」とボールを運ぶ。異質な光を放ち、ACLでも大活躍した。クセになるチャントが生まれ、サポーターは嬉々として大声で歌った。父はイラン人で母が日本人。イラン代表が触手を伸ばす中、5月には香川真司、本田圭佑らを擁するザックジャパン入り。一気に階段を駆け上がった春から初夏だった。

 もう一つ。アーリアの才能を開花させたランコ・ポポビッチ(ポポ)だった。FC東京、C大阪、レアル・サラゴサ(スペイン2部)、町田の4クラブで師弟関係を結んだ。現役時代のシュトゥルム・グラーツ(オーストリア1部)では、オシム元日本代表監督の下でDFとして活躍。チャンピオンズリーグ経験者で、「伝説のドリブラー」サビチェビッチともマッチアップした。旧ユーゴスラビア出身。欧州の一流を知るオシム門下生のポポに「ストイコビッチ、ボバン、ミヤトビッチ、ポロシネチキと数々のスターがそろった1990年イタリアW杯のユーゴスラビア代表から1人だけ自分のチームに連れて来られるとしたら」という質問をしたことがあった。首を横に振って「選ぶのは不可能」という答えが返ってきたが、こちらがユベントスなどで活躍した1人の選手の名を口にすると饒舌になった。

「『ユーゴビッチ』。スター軍団の中で、彼は少し違うタイプだったね。運動量が多く、チームに貢献できる。チームの心臓となるボランチだったけれど、クラシックなボランチとは違ってゴールも決められた。成績だけ見れば、一番タイトルを取った選手じゃないかな。ユーゴビッチがいなかったらレッドスターはトヨタカップで勝てなかっただろう」

 クラブ世界一を決める1991年のトヨタカップ。レッドスター・ベオグラード(旧ユーゴスラビア)は南米王者のコロコロ(チリ)と対戦した。前半42分に“王様”サビチェビッチが退場するも、MVPに輝いたユーゴビッチがピッチを完全支配し、3-0で快勝に導いた。「彼は賢い。1人少ないレッドスターの方が、人が多くいるかのように見えた」。ポポの表情を見れば、ドリームチームの陰のキーマンが好みなのだと分かった。その言葉もあってか、当時、急成長するアーリアとユーゴビッチのプレーが重なって見えた。頭の片隅にあった11年前の記憶が鮮明によみがえってきた。


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