あの風景は生涯、忘れることはないーー。ベガルタ仙台の関口訓充は、東日本大震災から10年を経た現在も、変わらぬ思いを持って走り続けている。それが仙台の、宮城の、東北の人々を勇気づけ、現状を発信することになると信じるからだ。(インタビュー後編)

上写真=3月6日、ホームのユアスタで行なわれた川崎F戦でプレーする関口訓充(写真◎J.LEAGUE)

取材・構成◎杉園昌之 写真◎J.LEAGUE

≫【インタビュー前編】選手みんなが被災地のために本気だった~ベガルタ仙台の関口訓充が語る「2011年シーズン」

誰よりも走る。それができなくなったらやめる時

 2011年のベガルタ仙台は、スタジアムから勇気や元気を届けただけではない。試合スケジュールの合間を縫いながら、避難所に何度も足を運んでいた。ボランティア活動をすることもあれば、被災した方と触れ合いながら会話をかわし、ともにサッカーを楽しむこともあった。関口は午前練習が終われば、スケジュールを調整しつつ、個人的にクラブスタッフと2人で避難所を出向いたりもした。

「プロ選手として、自分が好きなサッカーをやらせてもらっているという気持ちが強かったので、何かをしたかったんです。困っている人に食料、水を運ぶだけでもいい。避難所には励ましに行っていたのですが、逆にいつも勇気や元気をもらっていました。本当に苦しんでいる人たちから『頑張ってください』と言われるんです。他人の応援なんてしている場合じゃないのに、僕にエールを送ってくれて……。すごくシンプルな言葉ですが、一番心に残っていますね。僕らは、そんな人たちに後押ししてもらっていました。なおのこと、負けるわけにはいかないですよ。あの『頑張ってください』を胸に刻んでずっと戦っていました」

関口は多くの施設に足を運んだ。行き先々でサインを頼まれて、何枚もの色紙にペンを走らせた。ある避難所で書いた1枚は、長い歳月が流れても忘れることができない。

「『知り合いの棺に入れたいんです』と言われたときは……。いろいろな人たちと出会い、話しました。子どもたちとは一緒にボールも蹴りました。ベガルタのことが好きでもスタジアムに足を運べず、テレビでの試合観戦もできない人もいました。そういうたちに届けられるのは、結果なんです。結果だけは情報として伝わる。勝つことで被災地に思いを届けることができるんだって。あのときは、誠さん(手倉森監督)もずっと言い続けていましたが、結果が大事だって。だからこそ、1試合1試合が負けられない戦いでした」

当たり前のことが当たり前にできないことを肌で知り、あらためてサッカーができるありがたみを感じた。10年経ったいまも、その思いを胸に留めている。35歳を迎えても、ピッチでは誰よりも走り回り、気持ちを前面に出して戦う。何ら25歳のときと変わらない。

「最低限のことだと思っています。それができなくなければ、僕は辞めます。年齢は関係ないですね」


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